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保守政界を牛耳る

元共産党員の超大物

〜「親北朝鮮派」弱腰外交の起源〜

Originally written: April 17, 2003(mail版)■元共産党員の超大物〜〜「親北朝鮮派」弱腰外交の起源■
Second update: April 17, 2003(Web版)
Third update: April 20, 2003(Web版)(掲示板等で論じる際の注意)
Fourth update: April 28, 2003(mail版)■「被差別」の虚像〜シリーズ「元共産党員の超大物」(2)■
Sixth update: April 28, 2003(Web版)
Seventh update: May 06, 2003(mail版)■「反共」の虚像〜シリーズ「元共産党員の超大物」(3)■
Eighth update: May 06, 2003(Web版)
Ninth update: May 13, 2003(Web版)■国鉄爆破計画〜シリーズ「元共産党員の超大物」(4)■
Tenth update: May 13, 2003(mail版)
Eleventh update: May 20, 2003(Web版)■脅迫者はだれだ〜シリーズ「元共産党員の超大物」(5)■
Twelfth update: May 20, 2003(mail版)

■元共産党員の超大物〜〜「親北朝鮮派」弱腰外交の起源■
掲示板等で論じる際の注意
■「被差別」の虚像〜シリーズ「元共産党員の超大物」(2)■
■「反共」の虚像〜シリーズ「元共産党員の超大物」(3)■
■国鉄爆破計画〜シリーズ「元共産党員の超大物」(4)■
■「超大物」の履歴書■
■脅迫者はだれだ〜シリーズ「元共産党員の超大物」(5)■

■元共産党員の超大物〜〜「親北朝鮮派」弱腰外交の起源■
【今回は小説『ラスコーリニコフの日』の関連記事です。】

筆者は、政治的には保守系だが、非自民の「支持政党なし」層に属し、選挙のたびに違う党の候補者に投票している。いちおう反共自由主義者ではあるのだが、日本共産党には、汚職追求の党としての効用があると思われるので、投票したこともある。

だから、現在の共産党をそれほど嫌いではない。彼らの唱える主義主張や政策にはあまり賛同しないが、そういうことを言うのは、彼らのペルソナ(拙著『龍の仮面(ペルソナ)』を参照)だと理解できる。

たしかに、昔の共産党はいまより過激だったが、それも、戦前・戦中は非合法化されていたのだから「選挙運動をして国会で議席を取ろう」というわけにもいかず、まあ、仕方なかったのだろう、とある程度納得できる。

もちろん、共産党や左翼思想に一時期「かぶれて」のちに転向する、という人もいたっていい。
日本共産党はドイツのナチスとは違うから、共産党に在籍した過去があっても、そう気にすることはないだろう。「左翼からの転向」という意味では、終戦直後の衆議院議員選挙のときは社会党員だった鈴木善幸がのちに自民党に入党して総理・総裁になった例もあるし、社会党の村山富市党首を首班とする内閣を、自民党が社会党と連立して作ったとき、小泉純一郎現首相はもちろん、超保守派の石原慎太郎・現東京都知事もその連立与党に在籍していたぐらいだから、日本の保守勢力は、左翼にはかなり寛大だと見てよかろう。
筆者も、共産党の現党員や元党員に会っても、べつに興奮したり石を投げたりはしない。
(^_^;)
ただ、元共産党員であった過去を完全に隠して、昔から反共主義者だったような振りをする者がいるとしたら、それはいかがなものかと思う。

●終戦直後の日本共産党●
筆者は高校生の頃、教科書や受験参考書で、日本共産党の結党は1922年と覚えた。その当時からつい最近まで、日本共産党は日本列島の共産主義勢力を代表する政治結社として結成されたのだろう、と思っていた…………が、ちょっと違う。

戦前の日本には、治安維持法に違反しない、つまり体制転覆を目的としない合法政党がたくさんあった。それらは、まさに日本列島で選挙運動や党員獲得に励み、選挙に候補者を立てて、国会で議席を得ていた。しかし、戦前・戦中に「非合法政党」であった日本共産党の場合は、そうではない。

●意外に広かった「営業エリア」●
戦前の大日本帝国では、植民地に戸籍を持つ者、つまり朝鮮半島の出身者などには選挙権はなかった。
べつに驚くことではない。大英帝国でも、アメリカや香港など植民地の住民には、かなり長期間選挙権を認めていなかったから、当時の世界の常識から見て、それほどひどいことでもない。

ともかく、選挙制度がそうだったので、戦前の合法政党は、植民地朝鮮で政治活動はしなかったし、朝鮮半島から日本に(ほとんどの場合、自主的、選択的に)移住した朝鮮人たちに対しても、べつに党員になるように勧誘などはしなかった(戦前・戦中に日本に来た朝鮮人が全員、日本政府にむりやり「強制連行」されて来た、というのは、戦後に捏造された神話である。植民地住民というものは、たとえ宗主国でどんなに差別されても、たとえ宗主国政府が移住を禁止しても、豊かさや職を求めて宗主国に住みたがるものだ。小誌「在米イスラム人口急増」を参照)。

が、共産党の場合は、非合法政党なので、事情が違う。
元々選挙を通じて国会で議席を得ることを許されていないから、選挙権のない植民地出身者を党員にしても損はしない……それどころか、「非合法活動」をするときの員数になるので、積極的に勧誘したのだ。

日本共産党はソ連共産党の「日本支店」として創設された。1917年に世界初の共産主義者の革命、ロシア革命を成し遂げたソ連共産党は世界の共産主義運動を指揮する総本山として「一国一党主義」をとり、日本国にはただ1つの共産党、日本共産党しか認めなかった。だから、創設の年1922年から第二次大戦まで、日本共産党が「本店」から任された「営業エリア」は、当時の大日本帝国の版図、つまり日本列島とその植民地だった。したがって、戦前・戦中の日本共産党には、当然のように、朝鮮人の党員が大勢いた。

しかし、戦後、日本の植民地だった朝鮮が独立し、南北に別れて韓国と北朝鮮が建国する。ソ連は当然、自分が作った傀儡国家である北朝鮮を、朝鮮半島で唯一の合法的政府、合法的国家と認めた。

すると、「一国一党」の原則から当然、朝鮮には朝鮮の共産党が必要になる。
かくして、日本共産党の傘下にいた朝鮮人共産主義者はこぞって「暖簾分け」で離党し、ソ連が作ってソ連の情報将校(スパイ工作員)だった金成柱(キム・ソンジュ)を「支店長」に据えた、朝鮮人のための共産党「朝鮮労働党」に移った。つまり朝鮮労働党は人脈上は、日本共産党から「枝分かれした」と言えるのだ。

【尚、朝鮮労働党「創設者」の金成柱が、朝鮮半島の伝説的な英雄(闘士)の名前を借りて、金日成(キム・イルソン)と名乗っていることは、北朝鮮国内では秘密になっている。ちなみに、彼の息子の金正日(キム・ジョンイル)現労働党総書記は、ソ連スパイの子としてソ連領内で生まれたが、北朝鮮の「正史」では朝鮮民族の聖地、白頭山で生まれたことになっている(2003年2月14日放送のNTV『ザ・ワイド』などで紹介された露テレビ局の97年のドキュメンタリー番組、レオニド・ムレーチンの『赤い皇太子、玉座の後継者』)。】

北朝鮮の建国は1948年なので、一国一党の原則に従えば、その時点で日本にいた朝鮮人の日本共産党員は全員、朝鮮労働党に移籍すべきだった。が、北朝鮮は建国直後の1950年に韓国を侵略し、朝鮮戦争を始めたので、そんな暇はなかった。朝鮮人共産党員は、祖国北朝鮮の勝利を願って、朝鮮戦争で(日本の基地から朝鮮半島へ出撃する)米軍の足を引っ張るため、いろいろ米軍への妨害工作をしなければならなかったので、彼らは日本共産党に在籍したまま、いろいろやったそうだ。

【筆者はいまさらこのことを蒸し返して責める気はないが、詳しくは(反共右翼でなく)左翼的な信条を有すると思われるジャーナリスト田中宇の『マンガンぱらだいす』を参照されたい。】

というわけで、1922年から朝鮮戦争終結まで、日本共産党では、日本人と朝鮮人が同居していた。

●外国に弱みを握られる?●
となると、この間、共産党にいた日本人党員は、その活動実態を朝鮮人共産党員(のちの朝鮮労働党員)に知られていることになる。
あたりまえだ。共産思想を正しいと信じ、国家なんて日本なんてナンセンスと思って運動に身を捧げたのなら、異民族と共闘した過去があってもどうってことないし、当時から現在までずっと日本共産党に在籍し続けている日本人党員だって、べつにそのことを恥じる必要はあるまい。もちろん、朝鮮戦争前後に日本から北朝鮮に渡った朝鮮人やその日本人妻らがのちに北朝鮮で弾圧や飢餓に遭遇して苦しんだという実態があるし、そのことを右翼・保守陣営から2003年の現在、糾弾されてはいるが、それはあくまで一般論でにんげんとして考えた場合に「罪」なのであって、「共産党員のペルソナ」としてはべつに仕方のないことのはずだ。すくなくも、共産党員や左翼文化人などの「仲間内」ではそれで通るだろう。

が、もし、終戦直後に共産党から右翼・保守陣営に転向した日本人がいたとしたらどうだろう…………これはちょっと問題だ。
鈴木善幸は終戦後、社会党という「日本の」合法政党から、別の合法政党である自民党に移ったにすぎないから、迎えた自民党の側も「左翼思想に一時期かぶれてたんですね」で済んでしまう。が、もし日本共産党から自民党に移った者がいたとしたら、ことはそう単純ではない。

日本共産党も戦後、米占領軍によって合法化されて以降は合法政党だ。が、戦前は非合法政党だから、当然「非合法活動」をしていたはずだ(もちろん、こんにちの基準でいえば「思想信条の自由」の範囲内で許されてしまうようなこと、たとえば、マルクスの著書を読むことも「非合法」だったのだから、すべての非合法活動が「恐るべき犯罪」なわけはない)。

が、人によっては、相当に過激な、こんにちの日本人のイメージどおりの「非合法活動」をした者もいたのではないか。

百歩譲って、たとえ戦前どんな罪深い「非合法活動」をしたとしても、その後、心を入れ替えて転向し、反共主義や保守思想にめざめたのなら、許せる、としよう。上記のごとく、日本の保守政界は左翼には寛大で、元社会党員でも自民党総裁になれるぐらいだから、他国はともかく、日本の価値観では、たとえ「元共産党員の自民党幹部」がいても、それは許容されるべきなのかもしれない。

が、その「非合法活動」の実態が、外国に知られているとしたら、どうだろう?
上記のごとく、朝鮮労働党は日本共産党から「枝分かれ」したので、北朝鮮建国当初に移籍した在日朝鮮人労働党員たちは、「元同志」である、当時の日本共産党員たちの(非合法)活動の実態を詳細に知っている。

もし、その「元同志」のなかに、のちに転向して保守陣営に移った者がいたとしたら、どうだろう? その「転向者」が昔、相当な「非合法活動」をしていたとしたら、その秘密はすべて朝鮮労働党に握られていることになる。

「さからったら、ばらすぞ」

と言えば、いくらでも脅迫できるのではないか。いや、昔の弱みに付け込んで脅迫すれば

「転向した振りをして、日本の保守政界に潜り込め」
「日本の政府や保守政党を、朝鮮労働党の利益になる方向に誘導しろ」

と迫ることもできただろう。
実は、1950年頃まで日本共産党にいた人物が、のちに保守政界に転向して大出世した、という事例が、上記の『マンガンぱらだいす』(風媒社95年刊、p.234)に紹介されている。固有名詞は伏せてあったが、だれを指しているかは、筆者にはすぐにわかった。

【念のために付け加えるが、この人物は朝鮮系日本人ではなく、日系日本人だ。つまり、帰化した可能性はまったくない。本件をネットの掲示板で論じるとき「アカシックレコードが、○○を朝鮮人だと言っていた」などと間違って伝えないようにお願いしたい。】

著者の田中は、けっして反共右翼ではなく、どちらかといえば左翼的、親北朝鮮的な主張の持ち主であり、上記の著書も、べつに共産主義者や北朝鮮や某転向者をおとしめる目的で書かれたものではなく、むしろ朝鮮人や共産主義者への共感のにじみ出たノンフィクションだ。
それだけに、この本の「転向者」の下りは信用できる。

筆者は小説『ラスコーリニコフの日』を執筆するにあたって、「なぜ、95年の国松警察庁長官狙撃事件は8年後のいまになっても、まったく解明されないのだろう」と様々に仮説を立てて考え、仮説の検証に役立ちそうな資料を探すうちに、上記のノンフィクションに出会った。

そして、絶句した。
日本の政治家が、とくに(左翼系でなく)保守系の多くの政治家が、なぜ北朝鮮に弱腰なのか、という疑問が一気に氷解した。
テロや拉致で、何千人もの同胞の人権が侵害されても殺されても、日本の政府と国民は異様なほど北朝鮮に寛大で、事件の解明、犯人の処罰、経済制裁や外交制裁を十分にしないだけでなく、北朝鮮を援助し、国交を結ぼうという世論すら少なくないが、その理由はこれだったのか、と一瞬思った。
自国民が(国交のある)外国からテロや拉致の被害を受けたら、「加害国」とは国交断絶するのが普通なのに、逆に国交を結ぼうなどと考える政治家やジャーナリストが大勢いる国は、世界広しといえども、日本ぐらいしかあるまい。
米国は2001年9月11日の米中枢同時テロで数千人の同胞を殺されてから、その主犯の過激派組織アルカイダ(をかくまう「ホスト国」アフガニスタンのタリバン政権)を滅ぼすまで、たった2か月しか「我慢」しなかった。
もちろん、米国と日本では、軍事力も諜報能力も憲法も、国民の愛国心の強さも違うから、日本政府に米国政府とまったく同じことを求めることはできない。
が、それにしても、戦後何十年も同胞が繰り返し人権を蹂躙され殺されてきたというのに、その加害国にまともな抗議ひとつできない国は、日本以外にない。
テロや拉致の被害者の気持ちを思うと、また日本国と日本国民の安全を思うと、暗澹たる気持ちになってくる。

●『ラスコーリニコフの日』●
『ラス…』はこのような取材をしながら執筆したフィクションである(ノンフィクションではない)。
紀伊國屋書店・新宿本店などでご注文、ご購入頂ければ幸いである。

【警察庁長官狙撃事件と同じ年に起きた、地下鉄サリン事件の主犯、麻原被告にようやく、来たる2003年4月24日、一審の東京地裁で、おそらく死刑が求刑される。が、狙撃事件のほうは、なぜか、まったく解明されていない。】

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■「被差別」の虚像〜シリーズ「元共産党員の超大物」(2)■
前回より続く。】

田中宇『マンガンぱらだいす』風媒社95年刊、p.234)が指摘する、終戦直後日本共産党にいて(自身は日系日本人だが)当時の朝鮮系共産党員(のちの朝鮮労働党員)と行動をともにしていた、95年現在「バリバリの自民党(国会議員)」を(田中は無神経にイニシャルで表記していたが)筆者は「X」とする。そして、Xとよく似たプロフィールの超大物政治家を「X'」とし、このシリーズでは両者が同一人物か否か(X=X'かX≠X')を検証する(なぜ人名の特定に慎重なのかは、「タブーを破るための4項目」 を参照)。

共産思想だろうが反共思想だろうが、思想を持つこと自体は犯罪ではない。
たとえ、遠い昔、戦前から終戦直後の混乱期などに共産思想に基づく武力闘争をやっていたとしても、時代が時代なのでそれなりに理解できる。いまさら責める必要もないだろう。
また、共産思想から反共思想に転向した過去があっても、その後一貫性があれば、とくに反共保守陣営や、それを支持する有権者が許容するなら、いいだろう。
しかし、共産党員時代にやったことについて、外国の機関(朝鮮労働党)に「弱み」を握られ、脅迫されながら政治家として活動しているのなら、日本国にとっても本人にとっても問題だろう。

筆者は「弱み」や脅迫の有無を検証し、もし事実なら、それをなんらかの形(たとえばX'の政界引退)で終わらせたいと思う。

●恵まれた幼年時代●
X'については、当然多くの記事がある。元共同通信記者の魚住昭は、X'が、先祖代々差別されてきた最下層階級の出身だ、という周知の事実を指摘したうえで「X'ほど謎と矛盾に満ちた政治家はいない。彼には親譲りの資産も学歴もない」のに政界で大出世した、と不思議がる(『現代』03年3月号p.81)。

が、べつに不思議ではない。実は、彼は「差別された極貧の育ち」などではなく、村内随一の恵まれた農家に生まれ、村内随一の教育を受けていたのだ。

日本人は、少数民族や社会の最下層にいる(と自称する)人々に「差別だ!」と怒鳴られると、深く考えずに「反省」してしまう傾向がある。が、差別の被害者と称する連中は、被害者の振りをすることで利益を得ていることが少なくない。

たとえば「日本人は朝鮮人をずっと差別抑圧してきたのであり、戦前・戦中に朝鮮から日本に来た朝鮮人もみな、日本がむりやり強制連行してきたのだ」などという通説は「被害者ぶりっ子」で(精神的な)利益(優越感)を得たい連中が作り出した神話だ。戦前には多くの朝鮮人が日本での「一攫千金」を夢見て自主的に日本に移住しているし、そもそも世界のどこでも、植民地住民はたとえ差別されても、禁止されても、豊かさを求めて宗主国に住みたがるものなのだ(小誌「在米イスラム人口急増」を参照)。

江戸時代の日本には「士農工商」などの厳格な上下身分秩序があり、士農工商の下の階層に置かれた人々は、とくにひどい差別を受け、みな貧しかった……という定説も誤りであることが、最近の歴史研究で判明している。
最下層の人々は農民と違って土地に縛り付けられているわけではないので、商工業を自営して富を蓄えるケースが多々あった。このため「武士の次に偉い」はずの農民よりはるかに豊かな「最下層民」は多数実在した(『現代』03年4月号p.108)。

江戸時代、形式上最下層にあった人々(の村落)が著しく困窮するのは、明治時代、1881年大蔵卿・松方正義が実施した「松方デフレ」で商品市況が暴落したときだ。これ以降、X'の生まれたO村(のちのS町)を含む多くの最下層民の村落は長い貧困の時代にはいり、差別や偏見の対象となった。

が、それでもX'は恵まれていた。O村(S町)では、松方デフレ以来村民の大半は小作農に転落していたが、なんとX'の家は例外的な自作農で、X'の父は役場で働いてもいたから、村内では圧倒的に恵まれた境遇だった。
その農家で、X'は長男だったため他の兄弟と差を付けられ、優遇され、家族で唯一、いや、村でほとんど唯一、当時は富裕家庭の子弟しか行けなかった幼稚園に入学した。その教育投資は奏効し、X'は尋常小学校から旧制中学校にも進学し、村内で異例の高学歴を得た。

●乏しい差別の記憶●
もちろん、出身を理由に言語的、心理的な差別を受けたことはあるだろう。X'の縁者は、魚住の取材に「表沙汰になると怪我人が出る騒ぎになりかねないので…秘密にしてきた」から、これはX'自身も知らないことだ、と断ったうえで、X'の母が作った料理が、母の出自を理由に小学校教諭に忌避された事件を証言している(『現代』03年3月号p.83)。

が、この証言者がまさに述べているように、これはX'自身でなく、X'の親への差別であり、しかもX'自身が知らないのだ。となると、いったいX'はいつ差別されたのか、という疑念が沸く。

上記の証言者は何がなんでもX'を「差別をはね返して出世した英雄」にしたいらしいが、そのような事実は一般的に「期待」されているほど多くない。

魚住の取材に応じた別の同郷の者は、1955、57年にX'がS町の町長選挙に(無所属で)立候補しようとして事前に潰された理由を、最下層の出身でしかも30歳前後のX'が町長になることは前例がなく、許し難い「革命」だったから、という。が、たとえ最下層の出身でなくても、30歳前後の者が町長になった前例がない以上、地方政界の年長者から「生意気だ」と思われるのはあたりまえで、とくに驚くべき差別でもない。

いったい、いつ差別されたのだ?
魚住は「差別をはねかえした英雄」のトーンで『現代』の連載記事全体をまとめているが、それは、そう書くと約束しないと、彼の身内や同郷(同階層?)の人々から証言を得られないからに相違ない。じっさい、魚住はX'の地元には「目に見えない有刺鉄線がそこら中に張りめぐらされて」いてX'に不利なことは書き難い、と(怯えつつ?)述懐している(『現代』03年3月号p.80)。

【筆者は「X=X'」を思い立ったとき、一瞬、地元に取材に行こうと思ったが、上記の記事を読んで、やめた。行くと(取り引きや恐怖心から)かえって真実が書けなくなるからと思われたからだ。中国が文化大革命(文革)という政治弾圧と集団リンチの暗黒時代に突入した際、産経新聞は真相を報道したため、67年、北京支局(現中国総局)を閉鎖され追放されたが、その後は中国国外から情報を集めて正確に中国の暗部を暴き、日本におけるもっとも信頼できる中国問題の情報源であり続けた(中嶋嶺雄・元東京外語大学長)。他方、現地に支局(特派員)を置き続けた某新聞は「文革礼賛」など中国政府の意向に沿った記事を書き続け、信用を落とした。現地に行って取材対象に肉薄するのがいい、とは限らないのだ。】

X'は、最下層に生まれて差別されことを「売り物」にし、魚住も「資産も学歴もない」のに差別に勝って出世した、と称賛するが、実際は逆だ。村(町)でいちばん豊かで高学歴の者が、家族の期待と郷土の連帯感(「差別された」最下層民の組織票)に支えられて、当然のように権力の階段を昇ったにすぎない。1958年「無所属」のX'は、出身階層の「団結力」を背景に、S町の町長選挙に出ようとしていた自民党候補に立候補を辞退させ、革新系候補との一騎打ちに勝って史上最年少の33歳の若さで町長になるが、これも要するに「恵まれた境遇」による当然の結果だ。

X'の人物を見るとき、まず「差別」の問題を念頭に置いてしまうと、「被害者」としての彼への同情心から、真実を見誤る恐れがある。X'本人や周辺は繰り返し差別の被害を強調するが、それらは1つ1つ冷静に分析する必要があろう。

実は、筆者はこの記事のために調べ始めるまでは「X'が拉致問題などで日本の国益を無視して、外国におもねる(売国的な)外交政策をとるのは、彼を差別した日本社会への復讐心によるもので、情状酌量の余地はある」と思っていた。
が、X'は最下層民でない女性との結婚もはたしており(感情的な問題は別にして)社会制度上、経済上、具体的に差別を受けたと思われる事実はほとんどない。このことは、本シリーズで来月に論ずる、終戦直後の彼の行動を解析するうえで重要だ。

●歪んだ優越感●
もちろんX'より高学歴な者は中央政界には大勢いる。X'と50年代から親交のある竹下登(のちの首相)は早大卒だから、旧制中学止まりのX'よりはるかに高学歴で、しかも実家も裕福な造り酒屋で、地方議員としても国会議員としても常にX'の二回り先を走っていた。おそらくX'は竹下に劣等感を抱くことが何度もあっただろう。現に片方は首相になり、片方はそうなれなかったのだから。

が、それはあくまで劣等感であり、差別ではない。竹下はX'を差別したことはない(むしろ竹下はX'に目をかけ、X'は竹下に紹介された島根県出身の女性と結婚したほどだ)。
日本ではよく劣等感と差別が混同されるので、要注意だ。差別とは、加害者がいて、被害者が社会制度上、経済上の具体的な被害を受けることだ。日本が韓国より国力が大きいことを韓国人がひがむとか、低学歴の人が高学歴の人をねたむ、という問題はすべて「(自称)被害者」の心の中で起きている(心の貧しさによる)問題であり、「加害者?」側にはなんら打つ手も、責任もない。こういう被害者の要求をすべて満たそうとすると「東大や名門校は解体しろ」とか「不美人が劣等感を感じないように、みんなで美人の顔に傷を付けよう」という、文革の「紅衛兵」が行っていた、大学での破壊活動や教授たちへの集団リンチのようなことになってしまう。

この種の「劣等感処理」の願望は、たとえそれが国民の8割、9割の多数意見だったとしても、絶対に実現してはいけない。こういう連中の「ひがみ」を強制的に黙らせ、「東大」や「美人」など、ひがまれる少数派の人権を守るのが、法治国家というものだ。多数派のわがままに迎合するのは文明国ではない(文革時代の中国は文字通りの野蛮国だった)。

だから「自称被害者」には同情すべきでない。
X'は実家や故郷では学歴上、経済上、圧倒的な優越感を得ていたが、「外界」に出て竹下のような、より恵まれた存在に出会った途端に、一転して劣等感を持ったに相違ない。X'が20歳代から「階段を一段ずつ上がって代議士になる計画」を立て「一刻も早く町長になりたい。もたもたしていたら国会に行けない」(『現代』03年4月号p.110)と焦って、30歳そこそこの若さで生意気に町長をめざしたのも、同じ政治の道を志す竹下に負けまいとする気持ちから、としか考えられない。

郷土で優越感を得て外に出て劣等感を味わったX'の青少年時代は、ある意味で、オウム真理教教祖の麻原彰晃(松本智津夫)に似ている。
麻原は生まれつき左眼が失明状態で、右目の視力も0.3だったが、成人後に失明した長兄の「将来自分と同じように両眼失明したとき困らないように」という親心から、全寮制の盲学校に入学させられた。すると、同級生は全員目が見えないのに、自分だけ片目とはいえ目が見えることから、麻原は他者に対して圧倒的な優越感を獲得し、彼は(あまり好かれなかったが)学級内、学校内で指導的(独裁的)な地位を得た。

が、盲学校を卒業するとその地位は一挙に失われる。そのうえ、盲学校では目が見えない人への点字教育が中心だから、普通の文字の読み書きは苦手で「外界」では一転して「人並み以下」の学力ということになってしまった。そこで、麻原は、失われた優越感を取り返すため、日本最高の学歴とされる東大卒の学歴を手に入れようとしたが、点字中心教育がたたって受験に失敗。
その後、詐欺商法に走って薬事法違反で逮捕されるなど挫折を繰り返し、いろいろあって「宗教」に辿り着く。麻原は彼の教団で教祖として、かつて盲学校で得ていた圧倒的な優越感を回復するが、「外界」への劣等感は癒しがたく、90年に教団を挙げて衆議院選挙に25人もの候補者を立てて政界進出をはかるが、無知がたたって全員落選の屈辱を味わう。以後、反社会的な攻撃性を発揮するようになり、94〜95年にはサリン事件など、一連の凶悪事件を(某テロ国家の支援のもとに)起こす。

ただ、X'と麻原には決定的な違いがある。X'は家族に愛され、郷土の期待を受けて出世をめざしたのに対し、麻原にはそんなものはなかったのだ。
目が見えるのに盲学校への入寮を強制されたとき、麻原は抵抗したという……あたりまえだ。
筆者の知人に片耳の聴力がない者がいるが、彼は人並み以上の学力と運動神経を小学校で発揮し、以後高度な教育を受け続け、東大で教員免許を得て、現在は私立高校で「将来は校長」と嘱望されながら働いている。麻原も片目が見えなかったものの、小学校では学科も体操も成績優秀で、そのまま通常の教育環境で成長すれば、失明した長兄に代わって、一家の大黒柱になったことは想像に難くない。
つまり、将来両眼とも失明した場合に備えて盲学校に入れた、という長兄の配慮は、親心どころか、麻原への嫉妬だった可能性が高い。そう感じたからこそ、麻原は盲学校行きに抵抗し、のちに「自分は棄てられた」と語ったのだ。

不思議なもので、極端に家族から愛された者と、極端に見捨てられた者は、周囲から常に至上の尊敬(肯定的評価)を得たい、という表面上は同じ行動をとる。前者は、誕生以来ずっと続いていた優越感をあたりまえのこととして維持するため、後者はほとんど得られなかった、見果てぬ夢のようなものをなんとか得て、自分が価値のあるにんげんだとむりやり自分に言い聞かせるためで、両者は本質的には違うが「評価を得たい」という気持ちの強さは同じだ。

●サクセスストーリー●
X'の自伝などの資料を読み、その巧みな成功術を知ると、共感できる部分が出てくるので、ファンになってしまいそうで、実は筆者は少し困っている。
(^^;)
が、なるべく冷静に、彼の「日本共産党在籍疑惑」を解明していきたい。

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■「反共」の虚像〜シリーズ「元共産党員の超大物」(3)■
前回より続く。】

『マンガンぱらだいす』(風媒社95年刊)が指摘する、終戦直後日本共産党にいて(自身は日系日本人だが)当時の朝鮮系共産党員(のちの朝鮮労働党員)と行動をともにしていた、95年の時点での「バリバリの自民党(国会議員)」を「X」とし、Xとよく似たプロフィールの超大物政治家を「X'」とし、このシリーズでは両者が同一人物か否かを検証している。

検証のため、X'の自伝(文春文庫99年刊)を読んでみた。
驚いたことに、X'はその中で、終戦直後、日本共産党員と熱く議論を戦わすような関係であったことを認めている。もっとも『マンガン…』では、Xは京都府下の共産党の革命細胞(左翼暴力組織)の一員であったとされており、「自伝」(p.213)では「京都府の青年団が共産党に牛耳られており、それに怒ったX'が青年団の大会で反共演説をして共産勢力と決別した」となっている点で、やや違う。

共産思想だろうが反共思想だろうが、思想を持つこと自体は犯罪ではない。
また、共産思想から反共思想に転向した過去があっても、その後一貫性があれば、とくに反共保守陣営や、それを支持する有権者が許容するなら、いいだろう。ましてX'は「自伝」(p.213)で、自分は多数派に迎合して一色に束ねられるのが嫌いなので、ここで共産勢力と決別し、けっしてその思想には染まらなかった、と述べているのだ。
こんにち、X'は反共の政治家として知られ、日本共産党から忌み嫌われているから、おそらく、彼は青年団での決別宣言以来ずっと同じ政治スタンスなのだろう、と「自伝」のこの下りを読む限り理解できる。
ところが、彼はなんと、もう一度決別宣言をしているのだ。

ずっとあなたが好きだった〜蜷川革新府政との「決別ごっこ」●
1966年、日本共産党、日本社会党の支援を受けた蜷川虎三京都府知事が5期目をめざして立候補した際、X'はそれまで支持していた蜷川革新府政と決別して、自民党支持にまわった。当時の田中角栄・自民党幹事長の工作に乗り、蜷川を支持する京都府町村会(府下の町長、村長の会)会長を辞めたのだ。理由は、共産党らが牛耳る府庁による、町村への締め付けへの反感だった、と「自伝」(p.215)にはある。蜷川は「共産王国」を築き、公共事業や補助金の配分で、町村長が蜷川に従わない町村は不利に扱い、共産党系の民間団体にはえこひいきするなど、あこぎな行政運営をしていたからだそうだ(講談社『現代』03年5月号p.p142-143、「自伝」p.216)。

いちおう理屈は通っているが、それなら青年団時代の決別宣言はなんだったのか、と問いたくなる。「自伝」には決別したときのことばかり並べてあるから、いかにも「反共の闘士」のように見えるが、ウラを返せば、しょっちゅう決別を繰り返しているので、「自伝」で紹介できる「反共宣言」がたくさん残っている、ということでもある。

「オレはずっとあんな女は嫌いだったんだ!」と言いながら同じ相手と二度離婚するようなもので、なんとも笑えない話だ(んなアホな)。
(^^;)
しかも、その二度目の「離婚」の時期がはっきりしない。元共同通信記者の魚住昭によると……X'は政治を志した当初、1953〜56年は「保守の代議士・田中好のもとで(代議士秘書として)反蜷川陣営」に属したが、1958年にS町の町長になると(府庁からの締め付けのため仕方なく?)蜷川三知事にすり寄って「子トラ」と呼ばれつつ府下の町村長たちを蜷川支持で(一色に)束ねたものの、66年の府知事選挙を機に「反蜷川」の保守陣営に転じ、その後自民党に入党した……となる(『現代』03年4月号p.103、同5月号p.133、p.p142-143)。

が、自民党入党後も、もう一度寝返っている。
最近のX'は日本共産党から、00年の衆議院総選挙における「暗黒政治」などどぎつい表現の、大量の反共ビラまき攻撃により嫌われているが、78年、自民党の府議会議員だったX'は、共産党らをバックにした蜷川知事が府議会に提出した予算案の「賛成討論」を買って出ている。その際、予算案をほめるだけでなく、蜷川自身についても「偉大なる政治家」「まことに清潔な方」と述べ、露骨にゴマを擦っているのだ。

●「容共」の闘士●
なんだこれは?
共産党の志位和夫委員長は02年の京都での演説会で「78年には『暗黒政治』などといった共産党批判は一切せず、あとになって攻撃するのはけしからん」と怒っているが(「しんぶん赤旗」02年2月26日)まったく同感だ。志位は演説会の中で、78年当時の京都府議会定例会の会議録(議事録)を証拠として挙げており、こればかりは全面的に共産党の言い分が正しい。

当時の京都自民党の有力者、前尾繁三郎(元衆議院議長)もX'のことを「あれは正統な政治家じゃない」「(自民党入党後も)蜷川知事のエージェント(スパイ)をやっているのではないか」と疑っていたという(『現代』03年6月号p.83、p.77、前尾の元秘書、平野貞夫・現自由党参議院議員の証言)。

あきれた話だ。00年など最近の反共攻撃を三度目の決別宣言とすると、X'は左、右、左、右、左、右と、まるでスイッチヒッターのように「6打席連続」でころころスタンスを変えていることになる。X'に反共の政治家のイメージが強いのは、あまりにも頻繁に左翼勢力にすり寄っていたために何度も反共を唱え、何度もどぎつい罵倒とともに「離婚」する必要があり、その罵倒が国民(府民)の耳に残っているので「反共」に見える、ということにすぎない。たとえば、石原慎太郎都知事のような一貫した反共主義の政治家であれば、そんなに頻繁に反共宣言をする必要はないわけで、これと比べれば一目瞭然だろう。

が、その石原もX'にだまされ、X'のことを「蜷川革新府政と戦った反共の政治家(闘士)」として評価しており、それはX'の「罵倒」がいかに激しかったか(その激しさゆえに罵倒と罵倒の「谷間」の日和見な振る舞いが、いかに忘れ去られているか)を物語るものだ。

石原も自民党の支持者も国会議員も、いい加減に気付くべきだ。
X'はうそつきだ。府議会の議事録など、ちょっと調べればすぐバレる程度のウソを平気でつき、何度も節を曲げてきた。そもそも58年の町長選挙の際も(さすがに、青年団時代の決別宣言があるので共産党支持者の票はあてにできなかったものの)社会党支持者の票はあてにしており、そのお陰で僅差で町長に当選した、といういきさつもある(『現代』03年4月号p.115)。
それでいて、いまや自民党の実力者なのだから、独裁国家やテロ国家から見ると「カネさえ出せば左右どちらにも寝返りそうな」人物に見え、自国のスパイとしてもっとも利用しやすい、いや、利用してみたい政治家、ということになろう。

繰り返して言うが、共産思想や反共思想を持つこと自体は犯罪ではない。
また、たとえ遠い昔、戦前から終戦直後の混乱期などに共産思想に基づく武力闘争をやっていたとしても、時代が時代なのでそれなりに理解できる。いまさら責める必要もないだろう。
しかし、共産党員時代にやったことについて、外国の機関(朝鮮労働党)に「弱み」を握られ、脅迫され、あるいは買収され、外国(それもテロ国家)に利用されながら政治家として活動しているのなら、日本国にとっても本人にとっても問題だろう。

●右顧左眄(うこさべん)●
今回紹介したX'の「容共」時代の活動はいずれも、合法的な活動の範疇にとどまっている。彼自身が認めている(あるいは、府議会の公式記録に残っている)のだから、当然だが、思想的にここまで無節操だとわかると、政治家として表舞台に出る前、つまり、終戦直後に日本共産党の党員だったとしても不思議ではない。

X'にとって、もっとも重要なものは政治的な主義主張ではなく、前回紹介したように、S町で幼少期に得た期待と優越感であり、S町同郷人の(「最下層」民としての?)連帯感(組織票)なのだ。郷土の期待を実現するために(故・竹下登元首相に負けないために?)右であろうと左であろうと立身出世(権力獲得)のためなら平気で尻尾を振る、文字どおり「右顧左眄」の姿勢こそが、政治家X'の本質だ。

言い換えれば、彼は心理的には、日本国にも保守政界にも自民党にも属しておらず、ただ「郷土」(S町)のみに属し、「郷土の代表」(町一番の高学歴)というペルソナを最優先にして生きているのだ。

●非合法活動●
もしも「X=X'」なら、終戦の頃、X'と日本人共産党員と朝鮮系共産党員(のちの朝鮮労働党員)は、同じ「日本共産党」に在籍していた「同志」ということになる。これについてX'および現在の日本共産党、朝鮮労働党の3当事者はそろって口をつぐんでいる。

志位も、上記のように府議会議事録を使ってX'を攻撃するのもいいが、そんなものより、自分の党の過去の活動記録を公開すれば、簡単にX'の息の根を止められるのではないか?
それをしないのは、古すぎて資料が残っていないか、あるいは、当時の日本共産党が武力闘争(現代語で言うと「テロ」)をしており、そこに触れられるとまずいからか、のどちらか、ではあるまいか?

公表されているX'の、終戦直後の足跡と、当時の左翼の武力闘争(テロ)の実態を付き合わせると「接点」が浮かび上がる。次回は、X'(=X?)に非合法活動を行った過去があるか否かに迫りたい。

念のために確認しておくと、共産思想を持つこと自体を非合法化した治安維持法は終戦後、米占領軍の統治下で廃止されている。したがって、それ以降、X'が田中好代議士の秘書になる1953年までの期間に隠すべき「非合法活動歴」があるとすると、それは思想犯ではなく、ほとんど、暴力的破壊活動以外にはありえない。

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■国鉄爆破計画〜シリーズ「元共産党員の超大物」(4)■
前回より続く。】

田中宇『マンガンぱらだいす』風媒社95年刊)が指摘する、終戦直後日本共産党にいて(自身は日系日本人だが)当時の朝鮮系共産党員(のちの朝鮮労働党員)と行動をともにしていた、95年現在「バリバリの自民党(国会議員)」を「X」とする。そして、Xとよく似たプロフィールの超大物政治家を「X'」とし、このシリーズでは両者が同一人物か否か(X=X'かX≠X')を検証している(なぜ人名の特定に慎重なのかは「タブーを破るための4項目」を参照)。

『マンガン…』が暴露したXの軌跡と、公表されている終戦前後のX'の経歴を年代順に整理する。
※はX関連。他はX'】

1943年04月:X'、大阪鉄道局に就職
1945年01月:X'、陸軍に召集され四国各地で訓練
1945年08月:終戦。米占領軍司令部(GHQ)による日本統治開始
X'は復員し、大阪鉄道局に復職
1945年10月:GHQ、治安維持法(思想犯の取締り)廃止
1950年04月:蜷川虎三、日本社会党公認、日本共産党推薦で京都府知事に初当選
1950年06月:北朝鮮軍が韓国を侵略、ソウル陥落(朝鮮戦争勃発)
1950年09月:在日米軍、仁川上陸作戦に成功し韓国上陸
1950年10月:国連軍(米韓が中心)ソウルを奪回し北朝鮮に侵攻。平壌陥落
中国、軍事介入し国連軍による半島統一を妨害。平壌を奪回
1951年01月:北朝鮮軍と中国軍によりソウル再陥落
1951年03月:国連軍、ソウル再奪回
1951年04月:X'、S町議会議員に当選
1951年09月:サンフランシスコ講和条約と日米安保条約、締結
【※この頃、朝鮮人鉱山労働者、山陰線鉄橋爆破を計画】
【※この頃、XはS町の「革命細胞」で上記朝鮮人らと会合】
【※この頃、上記朝鮮人ら、京都府精華町の米軍弾薬庫爆破を計画】
【※この頃、上記朝鮮人ら、京都府日吉町の天若ダム(八木町の発電所)爆破を計画】
1952年01月:札幌市警(当時)警察官射殺事件
1952年02月:国鉄青梅線で貨車暴走事件。京都で警官隊とデモ隊が衝突(十数人負傷)
警察当局、3件のテロ(札幌、青梅線、京都)を日本共産党の犯行とみなして党員摘発に注力
1952年03月:X'、大阪鉄道局を退職
1952年04月:日本共産党支配下の「京都府青年団連合会」(京青連)総会。最初の「決別(反共)宣言」
サンフランシスコ講和条約発効(日本独立回復)。安保条約も発効
1952年05月:X'ら京青連を脱退し「京都府青年協議会」(京青協)を結成(初代会長はX')
1952年07月:日本共産党らのテロ活動を取り締まる目的で破壊活動防止法、制定
1953年04月以降:X'、保守系代議士・田中好の私設秘書に
1953年07月:朝鮮戦争休戦協定
1954年、在日朝鮮統一民主戦線(民戦)など日本共産党傘下の朝鮮人団体、解散
民戦らは在日朝鮮人総連合会(朝鮮総連)に改組され、朝鮮労働党(北朝鮮の独裁政党)傘下に
1958年11月:X'、S町長に僅差で当選(無所属で立候補し、社会党支持者の票も獲得)
このあと、X'は京都府の町村長を蜷川支持でまとめる「町村会」の会長に就任

1973年03月:X'、府議会で鉄道局退職の理由は「出身階層に基づく差別」と告白演説

『マンガン…』は、50〜52年頃、日本共産党を上部組織とする組織、在日朝鮮人連盟(朝連)や在日朝鮮統一民主戦線(民戦)に参加していた在日朝鮮人らの証言を載せている。その1人、マンガン鉱山労働者のイ・ジョンホ(李貞鎬)によると、「(95年現在)自民党国会議員のXも、当時はバリバリの共産主義者」で、京都府S町の細胞(暴力革命の行動単位)のキャップだったので、Xと一緒に細胞会議をしたこともある、という(田中前掲書p.234)。

元共同通信記者の魚住昭によると、X'の父は、最下層民の出身(ながらS町でほとんど唯一の自作農で、比較的裕福)だったので近郷近在で、元受刑者や朝鮮人の「救済活動」に熱心だったようだ。S町周辺にはマンガン鉱山がたくさんあり、そこで働く朝鮮人は貧しかったので、彼らの娘をX'の父はX'の弟らの子守りに雇ったという(講談社『現代』(03年3月号p.94)。

つまり、田中と魚住の取材はぴたりと符合して、矛盾がない。よって、99%の確率で「X=X'」と判断できる。

そのうえで田中の『マンガン…』を再度読むと、Xと細胞会議をともにした李貞鎬は、上記の年表のとおり鉄橋、弾薬庫、ダム(発電所)などの爆破テロを計画していたことがわかる(田中前掲書p.p 233-235)。

李貞鎬は、テロ計画にXが参加していたとは明言していない。が、当時の日本共産党は武力革命(テロ)を起こすと宣言しており、Xが細胞のキャップなら、テロ計画に関与しなかったはずはない。
とくに鉄橋爆破計画の場合は、関与しないほうが不自然だ。

●内通者が必要●
なぜなら、鉄道へのテロには内通者が不可欠だからだ。たとえばこんな事件があった。
85年11月、首都圏、関西などの国鉄の通信・信号ケーブルが切断されて、首都圏の国電全線区と関西の主要2線区で始発から通勤電車の運転ができなくなり、大混乱に陥った。警視庁など警察当局は、国鉄の分割民営化に反対する極左過激派「中核派」による同時多発ゲリラ事件と見てただちに摘発を開始した(朝日新聞85年11月29日付夕刊1面)。当時筆者は(それまでは過激派のことを単なる左翼学生の「はね上がり」と思っていたが)犯行グループの中に鉄道のプロ(元鉄道員)がいるのではないか、と疑った。たとえば筆者がいくら左翼思想にかぶれ、国鉄の分割民営化に反対だったとしても、国電のケーブルがどこを走っていて、どれを切ると電車が止まる、といった業務上の知識がない限り、こんなテロは絶対に思い浮かばないからだ。

案の定、国鉄内部に共犯者がいた。別のテロ(総武線浅草橋駅焼き討ち事件)ではあったが、逮捕された犯人のなかに、国鉄職員2名が含まれていたから(朝日新聞85年12月6日付朝刊23面)ケーブル切断にも(現役職員は関与していなくても)少なくとも元職員が関与したことは確実になった。ビルの放火や爆破と異なり「鉄道の運行を止める」テロには、鉄道業務経験者しか知りえない高度な知識が必要なことが確認されたのだ。

89年12月、渡部恒三・国家公安委員長は「過激派の活動に公務員を参加させないように(各省庁で)職員管理の徹底」が必要と述べたが(朝日新聞89年12月19日付夕刊10面)これは、85年の成田空港反対闘争や国鉄同時ゲリラ事件に国鉄職員(OB)が関与しており、国鉄労組がテロリストの供給源になっていることを念頭に置いた発言だ。

●テロリストXの誕生●
京都府北部には、戦時中日本海に面した重要な軍港だった舞鶴港があり、朝鮮戦争が始まると、そこから軍需物資が搬出され、朝鮮半島に上陸した米軍に補給された。そこで、当時京都府内にいた在日朝鮮人の共産主義者らは、米軍と戦う北朝鮮軍の支援には、米軍用の物資搬出を阻止するのが最善と考え、舞鶴港に物資を運ぶ山陰線の、鉄橋爆破を計画した(田中前掲書p.234)。

X(=X')は、弟の子守りを「マンガン鉱山労働者の朝鮮人の娘」にしてもらっていたのだから、人脈的には李貞鎬らの共産主義者と相当に近く、李貞鎬が鉄道テロを計画する場合、Xに相談しないのは不自然だ。

というより、鉄道の仕事に就いたことも、軍隊で物資輸送を務めたこともない「素人」の李貞鎬が(弾薬庫やダムと違って鋼鉄でできていて頑丈な)鉄橋の爆破などいう、鉄橋の構造や軍需物資輸送の重要性を知り尽くしていないと不可能なテロ計画を発案するとは考え難い。素人なら、鉄橋よりも爆破しやすい、平地の線路や駅の攻撃ぐらいしか思い付くまい(たとえば52年の青梅線のテロ犯は、貨車の暴走しかできなかった)。が、鉄道のプロであるX'は「それでは、すぐに復旧してしまうので、米軍の物資輸送にダメージはない」と判断できる。

また(日本軍は米軍と違って物資輸送を重視していなかったから第二次大戦に負けた、という説もあるくらいで)「物資輸送を断てば米軍に勝てる」などと発想する者が、当時の日本の「民間人」にはほとんどいなかったことも、徴兵経験のあるX'の関与をうかがわせる。

他方、終戦後大陸でソ連に抑留され(共産思想に洗脳され)た日本兵捕虜のなかに、南満州鉄道(満鉄)の労働者が多数含まれており、彼らが復員してくると日本政府は失業対策の意味もあって次々に国鉄で雇い入れた。このため国鉄の労働組合は極左暴力思想に冒され(上記の渡部の指摘のように)戦後は違法ストを繰り返し扇動する共産圏のスパイや過激派の温床となった。

【「スパイが電車を運転してる」と聞くと国民がこわがって国鉄に乗らなくなるので、これは戦後の日本のマスコミではタブーとされた。分割民営化とは一面では、政府が、国鉄に2つあったおもな左翼系労組のうち1つを寝返らせて取り込み、他の1つを壊滅させる「労組分断策」でもあった。
政府は、1つの有力労組の組合員には民営化後のJRへの再就職を約束して懐柔し、もう1つの有力労組は差別して、国鉄の「分割」を口実に、組合員(とくに幹部)を解雇したり、国鉄時代の勤務地(たとえば東京)から遠い新会社(JR九州)へ異動したりして、組合組織をズタズタにした。明らかな「不当労働行為」だが、当時の中曽根内閣はスパイ一掃のため「確信犯」で違法な差別人事を断行し、極左系労組幹部を路頭に迷わせた。なんの良心の呵責も感じなかった。】

こうした事情から、鉄道テロは、終戦直後から左翼の有力な闘争手段だった。52年の青梅線貨車暴走事件もこうしたテロの一環であり、当時の左翼はより効果的なテロのために、鉄道事情に精通した共犯者を必要としていた。

したがって、京都府内で計画された3つのテロのうち、鉄橋爆破は、朝鮮人共産党員ではなく、ほかならぬXが発案したのではないか、と筆者は推定する。なぜなら、X'(≒X)は戦中戦後大阪鉄道局(業務部審査課)に勤務して鉄道事情に精通しているうえ、当時の復員軍人の輸送業務や駅員への指導を通じて「大陸帰りの工作員」と接触しやすい立場にあり(『現代』03年3月号p.105)しかも終戦のときは四国山中で所属部隊の「物資輸送」に従事していたからだ(同p.103)。
X'は魚住に、終戦直後、復員して京都駅で浮浪者の群れを見たときの心境を(うっかり?)語っている:

「ひょっとしたら革命が起きるかもわからん……もう少し世の中の動きを見てみようかと思ってね。友だちの家を1週間ほど泊まり歩いた」(『現代』03年3月号p.104)

このとき、S町随一の高学歴で、家族と郷土の期待を担って出世しなければならない運命に生まれついたX'の脳裏に「共産党員として出世する」という夢がよぎったことは間違いない(このとき泊まり歩いた「友だち」には、弟の子守りをしていた、朝鮮人女性の親類縁者の、李貞鎬のような共産主義者が含まれていたに相違ない)。共産主義が自由主義より劣ることは21世紀の現代では自明だが、終戦直後の日本ではそうではなく、「強大な大日本帝国が敗れた」という喪失感から正反対の未来を展望する者も少なくなかったから、X'が共産思想に染まったとしても、むしろ当然だった。

●府議の言い訳●
半世紀前の日本の公務員事情はいまとかなり違ったようで、51年4月、X'(≒X)は大阪鉄道局に勤務したまま、故郷のS町の町議会議員選挙に立候補して当選し、以後「二足のわらじ」を履いた。が、翌52年3月、X'は鉄道局を退職する。

退職の理由は、X'の出身階層に基づく差別だった……と(不思議なことに21年後に)X'は73年の京都府議会本会議場で自民党の府議会議員として演説している。

魚住によると、X'は優秀な職員で、どんどん昇給したため、あとから復員してきた先輩職員にねたまれたから、となる。20代半ばに早々と係長を抜き、課長補佐に近い額の給料を得たX'に対して、52年頃「X'は最下層民だ」という陰口がささやかれるようになり、それを苦にしてX'は52年3月に鉄道局を退職した、という(『現代』03年3月号p.105)。

が、別の理由がありうる。
退職直前の52年2月には、青梅線で鉄道テロがあり、京都では警官隊とデモ隊の大規模な衝突事件が起き、いずれも日本共産党が関与したと警察当局は疑っている。しかも、前年4月のS町の町議選ではX'という鉄道員が当選しているのだ。この時点でX'はまだ最初の「反共(決別)宣言」をしておらず、京都府下の町村議会議員は全員、自動的に共産党の影響の強い「京都府青年団連合会」(京青連)に加盟していたから、警察当局は当然、X'を「今後、共産党の指導を受けて鉄道テロを行う可能性のある要注意人物」と見て摘発しようとしたはずだ。

【58年のS町長選挙のときまで、X'が社会党支持者などの「左翼票」を得ていたことは確実なので(『現代』03年4月号p.115)51年のS町の町議選でも左翼票を得て当選したことは間違いない。したがって52年当時、警察当局にはX'を共産党の党員またはシンパと疑う合理的な理由があった。】

筆者は断定する。X'の鉄道局退職の理由は差別ではない。52年2月の時点で、現役の鉄道局職員にして日本共産党員だったX'(=X)は、S町周辺在住の朝鮮人共産党員とともに、鉄橋爆破という(思想犯ではなく)正真正銘の非合法活動(凶悪犯罪)を計画し、それが摘発されそうになったのであわてて計画を中止し、鉄道局を退職したのだ。

ただ、退職の理由が「共産党員と疑われたから」となると、今後も警察にマークされるし、当時の日本政界では「出世」も「天下取り」も望めない。
すでに51年の、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約の締結で、日本は米国を盟主とする西側自由陣営に組み込まれていたし、朝鮮戦争では「共産革命勢力」が米軍をなかなか圧倒できそうになかったから、日本で共産革命が起きる可能性も(終戦直後にX'が京都駅で予感したほどには)高くなかった。とすると、共産党員であることは政界での出世(たとえば大臣になること)の足しにならないばかりか、再就職して生活費を稼ぐうえでも(警察に追われるので)障害になりかねない。

X'は、自身に今後「共産党在籍疑惑」が降りかからないように、急遽別の退職理由を捏造する必要に迫られた。そこで思い付いたのが「自分は最下層民の出身で、それで差別されたから辞める」というものだった。この捏造は簡単で、だれかに頼んで職場に「X'は最下層民」という噂を流してもらうだけでよい。

この噂は事実に基づいているから簡単に広まる(但し小誌「『被差別』の虚像」で述べたように、X'自身は、出身階層を理由に教育上、職業上の差別を受けたことは、少なくともこの時点までは一度もない「恵まれた育ち」である)。当時の(西)日本ではこの種の差別意識は強烈なので、職場の同僚の関心はすぐにこの問題に集まり、だれも「X'が共産党員かどうか」などといったささいなことには関心がなくなる。カモフラージュ効果は抜群だ(当時は、娘が共産党員と結婚するほうが、最下層民と結婚するよりましだ、と考える親も少なくなかった)。

鉄道局退職直後の52年4月、X'は京青連大会で最初の「反共宣言」を行ったが、これは(その後、53年の保守系代議士への接近と併せ)自身への共産党在籍疑惑を完全に払拭する「駄目押し」のカモフラージュだったに相違ない。

●歴史の改竄●
以上で、「X'は共産党員Xだった」とすると、彼の複雑な経歴を矛盾なく説明できることが、おわかり頂けたと思う。 にもかかわらず、『マンガン…』で田中が(イニシャルまで暴露しながら)Xがテロ計画に関与していたことを明示しなかったのは、なぜだろう?

無理もない。
『マンガン…』が刊行されたのは95年9月だから、その取材、執筆、編集作業は94〜95年に為されたはずで、ちょうどこの時期、X(=X')は自民党の「バリバリ」であるだけでなく、政府の要職にあり絶大な権力を揮っていた(そのうえX'とつながりが深いと見られる某テロ国家が、日本でテロ集団を使ってテロをやらせた直後だった)(「要職」については、拙著『ラス…』を参照)。

だから、田中にしろ李貞鎬にしろ、下手なことをしゃべってXににらまれたら怖い、と思ってXと鉄道テロとの関係を明言できなかったに相違ない。だれも責められまい。

【おそらくこの「要職」にあるとき、X'はその強大な権力を使って終戦直後のXの「捜査資料」が残っていないか調べ、残っていた場合は抹消しただろう。】

但しX'は共産党時代にテロリストとして殺人などの重罪を犯したわけではない。鉄道テロ(を含め、李貞鎬とともに計画したと思われる3件)は計画段階で中止されているのだ。

ならばX'にとって、共産党に在籍していたことは、いつまでも隠す必要はないのではないか。この「秘密」は(日本国内では知られていないものの)当時の朝鮮系共産党員(のちの朝鮮労働党員)を通じて北朝鮮政府や朝鮮労働党に筒抜けだったはずだが、北朝鮮がこれをネタにX'を脅すことはできただろうか。

詳しくは次回以降。

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■脅迫者はだれだ〜シリーズ「元共産党員の超大物」(5)■
前回より続く。】

田中宇『マンガンぱらだいす』風媒社95年刊)が指摘する、終戦直後日本共産党にいて(自身は日系日本人だが)当時の朝鮮系共産党員と行動をともにしていた、95年現在「バリバリの自民党(国会議員)」を筆者は「X」とする。そして、Xとよく似たプロフィールの超大物政治家を「X'」とし、このシリーズでは両者が同一人物であること(X=X')をほぼ証明した(なぜ人名の特定に慎重なのかは「タブーを破るための4項目」を参照)。

公表されているX'の経歴を中央政界入りまでまとめてみる(終戦前後から1958年までのXとX'の軌跡はこちらを参照)。

1958年11月:X'、S町長に僅差で当選(無所属で立候補し、社会党支持者の票も獲得)
このあと、X'は京都府の町村長を蜷川支持でまとめる「町村会」の会長に就任
1966年04月:X'、京都府知事選で5期目をめざす蜷川に叛旗(二度目の反共宣言)
1967年04月:X'、京都府議会議員に初当選、自民党入党
1970年03月:日航機「よど号」ハイジャック事件
1972年02月:浅間山荘事件
1972年09月:日中国交回復
1973年03月:X'、府議会で鉄道局退職の理由は「出身階層に基づく差別」と告白演説
1978年02月:X'、府議会で蜷川知事提出の予算案に賛成討論
1978年03月:蜷川知事引退
1978年04月:自民党の林田悠紀夫、京都府知事当選。X'は副知事に就任
1983年08月:X'、衆議院議員に初当選(京都2区補欠選挙)

前回「X=X'」(X'は元共産党員)と断定したが、今回のテーマ、つまりX(=X')が共産党時代の非合法活動をネタに脅迫されているか、という仮説の検証はそれよりは難しい。 ただ、上記の年表は、重要な示唆を与えてくれる。

X'と「細胞会議」をともにした在日朝鮮人の日本共産党員イ・ジョンホ(李貞鎬)は、鉄橋爆破を含む3件のテロを計画しながら実行しなかった理由を明言していないが、それは52年7月に共産党らのテロを封じる目的で施行された破壊活動防止法(破防法)の適用を恐れたと解するのが自然だ。

もちろん李貞鎬は当時低学歴のティーンエイジャーで共産思想の尻馬に乗って血気盛んだったから、ダイナマイトは鉱山の仕事で使い慣れているので「爆破はお手のもんや」(田中前掲書p.234)「破防法何するものぞ」と思っていたかもしれない。が、X'は当時20代後半で、S町では町一番の高学歴で、鉄道局の管理業務も兵役も経験済みだ。テロ計画の中止は、破防法適用を恐れたX'の「分別」による、と見るべきではないか。

破防法施行の2年前、蜷川虎三が京都府知事に当選し、その後四半世紀におよぶ「共産王国」の歴史が始まるが、蜷川はあくまで共産党の推薦を受けているだけで、共産党員ではない。だから、末端の党員がどんな暴力犯罪を計画しようと蜷川には破防法は適用されない(共産党自身も、破防法を恐れて穏健路線に変わっていく)。

ただ、京都の共産党は蜷川の力で府内全域に勢力を拡大できたのも事実であり、蜷川には息のかかった共産党員の「手下」もいたはずで、そういう者に命ずれば、蜷川はいつでも府内の共産党員の資料を閲覧できたはずだ。

ところでX'は、52年に鉄道局を辞めたいきさつを、それから21年も経った73年になって(それも府議会本会議という公共の場所で、記録に残るような形で)「証言」しているが、これはいかにも不自然だ。魚住によると、X'がおおやけの席で被差別体験を詳細に述べたのは、このときだけだというから(『現代』03年3月号p.p104-105)73年の証言には重大な意味があると考えられる。理由はなんだろう。

X'の自民党入党は67年で、その前年に「蜷川批判」、つまり二度目の「反共(決別)宣言」をしているが、それまでは「左翼系無所属」だった。X'の「再決別」後、日本の左翼勢力は暴走し、醜い正体を表す。

70年のよど号事件や72年の浅間山荘事件を「赤軍派」が起こしたことにより、重信房子ら率いる左翼過激派全体が、安っぽい正義感を振り回しで面白半分に民間人を殺傷する「殺人鬼」の類であることが判明し、広く日本国民全体に左翼思想が暴力と結び付いた場合の危険性が認識された。

もしこんな状況で「X'が武力闘争(テロ)路線時代の共産党に在籍していた」と知れたら、自民党に入党したばかりのX'はどうなるだろう?……X'の共産党在籍は2003年の現在かから見れば半世紀前の「歴史」だが、浅間山荘事件当時の国民から見ればわずか20年前の「前科」だ。もしこの時点で共産党在籍の過去を暴露されたら、それで保守政治家としてのX'の政治生命は終わっていたはずだ。

そして、X'の共産党在籍の過去を知って「過去をばらされたくなければ、言うことを聞け」とX'を脅せる立場にある者は存在した。言うまでもなく、1950年前後に京都府内の共産党組織に通じていた者、すなわち日本人共産党員、朝鮮人共産党員(のちの朝鮮労働党員)、それに蜷川虎三である。

●最初の脅迫者:蜷川府知事●
京都府では共産・革新勢力が強いとはいっても、府議会の第1党は、日本の他の自治体と同様に、自民党であることが多い。蜷川は個人的人気で浮動票も得ていたので、知事選ではいつも圧勝だったが、府議会では保革両陣営が伯仲しており、蜷川は議会対策に苦労した。

67年の府議選の結果、開票の時点では、自民党は20議席で府議会最大勢力の座を社会党(21議席)に譲っていた。そこで、自民党は選挙後にX'らを入党させて再逆転した。

X'らの自民党入党は、蜷川やその与党(社会党、共産党)にとって、さぞかし不快だっただろう。X'の転向(裏切り)で府議会で不利になったことは言うまでもない。となると、蜷川は、X'を脅迫し、議会対策のため裏で操りたい誘惑に駆られるのではないか。

考えすぎ、ではない。当時、X'を蜷川のスパイと疑った者は大勢いたのだ。
「蜷川は、X'が反蜷川にまわったのは、政治家として生きていくための知恵と理解した。蜷川が府議選で社共候補の応援にまわるときもS町だけは素通りしてX'批判を一切しなかった。X'も(共産党が支配する蜷川府政は攻撃しても)蜷川個人は攻撃しなかった」と、X'と親しかった京都新聞の元政経部長・笹井慈朗は、元共同通信記者の魚住昭に語っている(講談社刊『現代』03年6月号p.74)。

「攻撃」された蜷川陣営にも証人がいる。
「X'は蜷川と一見対立しているようで、実は対立していなかった。その証拠に、私は蜷川から『X'を排除しろ』と言われたことがない。政治家というものは敵のなかにも味方を持つ(見出す)必要があり、その意味では蜷川は『政治家』だった」と蜷川の元側近も、魚住に証言した(『現代』03年6月号p.p 76-77)。

あきれたことに、当の自民党にもX'に「逆スパイ」の役割を期待した者がいた。
「X'ら無所属議員4人の加入で第一勢力の座は取り戻したが、X'を受け入れた理由はそれだけではない。X'は蜷川陣営にいたから向こう側の情報も知っているし、蜷川攻撃の材料になるだろうと期待していた。前尾繁三郎(元衆議院議長。自民党京都府連の重鎮)に相談したら、前尾も同じ意見だった」(『現代』03年6月号p.74、当時の府連幹部の証言)。

72年、台湾を重視する石原慎太郎ら一部の自民党右派勢力の反対を押し切り、国会で保革双方の圧倒的多数の支持を得て、日中国交回復および台湾との断交が、田中角栄首相(自民党)によって実現される。こうなると、自民党の政治家と共産勢力の接触の機会は増えるから、石原のような正当な保守(反共)の政治家は、X'のような「元革新」の自民党員には厳しい目を向ける恐れがある。

現に、X'を京都自民党に迎え入れた前尾も、のちにX'のことを「あれは正統な政治家じゃない」(結局、蜷川陣営のスパイだった?)と述懐し(迎え入れたことを後悔し)ている(「蜷川革新府政との『決別ごっこ』」)。

●府議の言い訳●
となると、73年に府議会でX'が、大阪鉄道局を退職してから21年も経って唐突に「職場で出身階層が最下層であることを理由に差別されたから辞めた」という言い訳演説をした理由が理解できよう。

52年に退職したときと同じだ。共産党在籍疑惑を払拭するために、別の大問題(出身階層問題)を持ち出して「左翼疑惑」をカモフラージュし「私を悪く言う者は、差別主義者とみなして(最下層民と団結して)糾弾するぞ」と世間を脅したのだ。じじつ、これ以降、X'の左翼疑惑が取り沙汰されることは少なくなり、石原などは以後ずっとX'のことを「蜷川革新府政と戦った反共の闘士」と誤解している。

●第2の脅迫者:朝鮮総連●
この「不義の言い訳」の時点で、X'はまだ京都府議にすぎず、中央政界を左右するような重要人物ではないから、北朝鮮など共産圏諸国の諜報機関や朝鮮労働党にとって、この事件はそれほど重大な意味を持たなかっただろう。

が、あまりにも露骨なウソだったため、1950年前後のX'の行動を熟知している「元同志」、在日朝鮮人の元日本共産党員(のちに朝鮮労働党傘下の朝鮮総連に加盟)たちは即座に注目(爆笑?)したに相違ない。

「そう言えば、オレたちがいくらでも脅せるやつが、自民党にいたんだな」

X'は共産党在籍時代にテロリストとして殺人などの重罪を犯したわけではない。鉄道テロ(を含め李貞鎬とともに計画した3件)はすべて計画段階で中止されているし、在籍疑惑で鉄道局を辞めたのも21年も前のことだ。

が、この府議会での「偽証」によって、X'は朝鮮総連に脅されるネタを新たに作ってしまった。

【但し、民主主義国家の議会では、議員は議場での発言や票決について、議会外で責任を問われることは(証人喚問に応じて偽証し、議院証言法に違反した場合以外は)ない。したがって、この「偽証」は偽証罪を構成しない。が、有権者に向かってウソをついたことは明白で、刑事責任は問われなくても政治責任は問われる。】

当時、朝鮮労働党、朝鮮総連はすでに日本共産党とは絶縁状態にあり、自在に操れる「味方」は、不正なパチンコ献金などでつながっている「万年野党」で党員数も共産党より少ない、無力な日本社会党ぐらいしかなかった。

78年にX'が副知事になると、朝鮮総連にとってのX'の利用価値は一気に高まったはずだ。なぜなら、総連は蜷川は脅せなかったが、X'は脅せるからだ。

「早くX'先生に代議士になって頂きたい」

といちばん強く願ったのは、自民党でもX'の支持者でもなく、朝鮮総連ではあるまいか。総連から見ると「友党」である社会党には頭を下げて「お願い」しなければならないが、X'なら思い通りに「要求」できる、というメリットがあるのだから。

その「期待」を背に、X'は田中角栄に接近する。83年7月、なぜか突然、秦野章法相(田中派)は「帰化申請する在日外国人の『帰化後の氏名』には(日本風の名前でなくとも)カタカナなどの民族名でも受け付けよ」と独断で大臣通達を出す。

当時役所の窓口では、帰化した元外国人が外国籍と間違われないようにという(余計な?)配慮から、日本風の本名を名乗るよう指導していたので、事務方は一斉に反発したが、法相は押し切った(朝日新聞83年7月17日付朝刊2面)。この通達で、それまで帰化と同時に共産勢力と絶縁できるはずだった元朝鮮人が、なかなか絶縁しにくい状況が生まれてしまった。

そして83年8月、X'は田中派の応援を得て、衆議院京都2区補欠選挙に当選し、中央政界進出をはたす。 日本共産党よりも、日本社会党よりも、蜷川虎三よりも、もっとも朝鮮総連にとって都合のいい国政政治家の誕生だ。彼の当選と彼の「過去」について、朝鮮総連はただちに上部組織の朝鮮労働党(北朝鮮政府)に報告したに相違ない。

北朝鮮工作員による日本人拉致が始まったのは、X'が副知事になった78年の前年。80年、産経新聞が2年前の78年の日本海沿岸でのアベック失踪事件(蓮池夫妻ら)を、外国スパイ機関による拉致の可能性ありと報道した。

その後四半世紀、2002年9月の小泉首相の訪朝、10月の蓮池夫妻ら拉致被害者5人の帰国まで、拉致問題はまったく進展せず、数百名の日本と韓国の国民が拉致されたままだ。

その間、北朝鮮はラングーン爆弾テロ事件、大韓航空機爆破事件、違法な核開発、日本国内での覚せい剤密売など悪の限りを尽くす一方で、X'ら自民党の「ハト派」(親北朝鮮派)政治家のお陰で、コメ支援などを受け続けた。

93年、「ハト派」の中心人物で自民党旧田中派(竹下派)重鎮の金丸信・元副総理が脱税で起訴され、それがきっかけで竹下派も自民党も分裂し、そこから飛び出した小沢一郎らが非自民連立政権(細川内閣)を作って自民党の「ハト派」を野党に突き落とした。

が、94年、非自民連立政権に参加していたなかではもっとも親北朝鮮的な勢力、日本社会党が「小沢は人柄が悪い」という政治的には意味不明な理由で連立政権を離れ、自民党のハト派と結託。元田中派の新党さきがけ党首、武村正義も巻き込んで、「自社」連立政権を作る。

このとき、自民党と社会党という保革両雄の交渉をまとめ、組閣後内閣の「要職」に就いたのがX'だった(「要職」については「タブーを破りたい人のためのツール」すなわち拙著『ラス…』を読んで適当に「邪推」されたい)。
その後8年間、拉致問題はまったく解決されず、日本政府は北朝鮮にコメ支援を与え続け、朝鮮総連が牛耳る朝銀(タテマエは在日朝鮮人のための金融機関だが、実態は北朝鮮への不正送金手段)に多額の公的資金を注入したところを見ると、90年代以降の日本政局の主役は、小沢でもX'でもなく、X'を脅迫して操る朝鮮総連(その上部機関としての朝鮮労働党、北朝鮮政府)だったのではあるまいか。

90年に訪朝して(拉致問題を棚上げして)日朝国交回復を提案して金日成主席(当時)と意気投合したほどの親北朝鮮派の大物、金丸元副総理が93年に脱税で失脚したあともなお、日本の「対北朝鮮宥和(弱腰)外交」が続いたところを見ると、「親北朝鮮派」の中心人物はずっと(表面上は金丸だったが)裏ではX'だったのではないか。

少なくとも朝鮮総連から見ると、賄賂好きの保守政治家にすぎない金丸より、73年府議会でのウソをネタにいつでも政治生命(と社会的生命)を絶てるX'のほうが「操縦しやすい」のは確実だ。

【X'がだれで、彼が権力の座にあるとなぜ問題なのか(過去に政治家としてどんな悪事をしたか)かわからない、という方は「タブーを破りたい人のためのツール」 をお読み頂きたい。この「ツール」、すなわち拙著『ラス…』が10万部売れると、結果的にある方が失脚します。】

【この問題については次回以降も随時(しばしばメール版の「トップ下」のコラムでも)扱う予定です。
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 (敬称略)

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