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シリーズ「SARSの方舟・U

だれがSARSを作ったのか

『ゲノムの方舟・文庫版発売記念スペシャル
〜ウイルスと生物兵器の新しい常識

Originally written: Aug. 04, 2003(mail版)■だれがSARSを作ったか〜シリーズ「SARSの方舟U」■
Second update: Aug. 04, 2003(Web版)
Third update: Aug. 07, 2003(mail版)■中国vs.製薬企業〜シリーズ「SARSの方舟U・だれがSARSを作ったか」(2)■
Fourth update: Aug. 07, 2003(Web版)
Fifth update: Aug. 11, 2003(mail版)■中国のバイオ敗戦〜シリーズ「SARSの方舟U・だれがSARSを作ったか」(3)■
Sixth update: Aug. 11, 2003(Web版)
Seventh update: Aug. 18, 2003(mail版)■中国vs.中国人民〜シリーズ「SARSの方舟U・だれがSARSを作ったか」(4)■
Eigth update: Aug. 18, 2003(Web版)
Ninth update: Aug. 26, 2003(mail版)■「炭疽菌疑惑」への疑惑〜シリーズ「SARSの方舟U・だれがSARSを作ったか」(5)■
Tenth update: Aug. 26, 2003(Web版)
Eleventh update: Sept. 04, 2003(mail版)■炭疽菌ビジネス〜シリーズ「SARSの方舟U・だれがSARSを作ったか」(6)■
Twelfth update: Sept. 04, 2003(Web版)

03年2月、欧州の巨大製薬企業(R社)が、自社製の薬品が中国南部で流行中のインフルエンザ肺炎(のちに新型肺炎SARSと判明)に効く、と誤報を流し、広東省で薬価の暴騰を招き、住民をパニックに陥れていた。その5か月後、この企業は高い技術力を発揮し、世界で唯一、検査と治療の両面でSARS関連ビジネスのトップに立つ「独占企業」になる可能性を示した。

■だれがSARSを作ったか〜シリーズ「SARSの方舟U」■
■中国vs.製薬企業〜シリーズ「SARSの方舟U・だれがSARSを作ったか」(2)■
■中国のバイオ敗戦〜シリーズ「SARSの方舟U・だれがSARSを作ったか」(3)■
■中国vs.中国人民〜シリーズ「SARSの方舟U・だれがSARSを作ったか」(4)■
■「炭疽菌疑惑」への疑惑〜シリーズ「SARSの方舟U・だれがSARSを作ったか」(5)■
■炭疽菌ビジネス〜シリーズ「SARSの方舟U・だれがSARSを作ったか」(6)■


■だれがSARSを作ったか〜シリーズ「SARSの方舟U」■
【03年7月3日の「真冬に再燃」 の関連記事で、「シリーズ・SARSの方舟」全体では7回目です。】

上記の「真冬に再燃」の記事で、筆者は、03-04年冬季にSARS(重症急性呼吸器症候群、新型肺炎)の流行騒ぎが再燃すると、中国経済は致命的な打撃を受ける恐れがあるという予測を述べた。たとえSARS自体が流行しなくてもインフルエンザが流行すれば、両者は初期症状が似ているため、検査方法が確立していないと各国で……とくに中国の農村のように医療インフラの貧弱な地域ではパニックが起きうるからである。

ところが、その後、あるエイズ治療薬を使うとSARSウイルスの増殖が抑えられることが、京都大学と東京医科歯科大学の研究グループにより明らかになった(朝日新聞Web版03年7月15日)。

グループの一員、東京医歯大の山本直樹教授(ウイルス制御学)は「エイズの治療で用いられている薬なので、すぐに臨床に使える可能性が高い」と話している、という。
これで、筆者の懸念は杞憂に終わった……のだろうか?

問題の薬はネルフィナビルというが、それはどんな製薬会社が製造し、どんな価格で売られているのか、筆者は気になった。

●ネガティブ・ウォー●
というのは、日米欧の巨大製薬企業がゲノム(全遺伝情報)の解析などに巨費を投じて新薬を開発する「ゲノム創薬」の時代には、企業は膨大な投資を回収するため研究成果を特許で囲い込み、高価な特許料を設定するため、新薬の値段が高騰し、貧しい国の患者には容易にはその新薬が入手できないからだ。

現代は、ゲノム解析に象徴される高度なバイオテクノロジー技術文明の時代だが、これを使って人を殺す方法は2通りある。

1つは、そういう技術を「積極的に」使って生物兵器などを造り、それを用いて人々の生命や健康を奪う「積極的生物兵器戦争」(ポジティブ・ウォー、積極戦)。そしてもう1つは、そういう技術が産み出すべき新薬を、特許制度に基づく機密保持(共同研究妨害)や薬価の高騰によって貧しい人々に「使わせない」ことで彼らの生命や健康を奪う「消極的生物兵器戦争」(ネガティブ・ウォー、消極戦)。

【これらの用語は筆者の造語。拙著『ゲノムの方舟・文庫版(上)』第一章の註を参照。】

小誌や拙著『龍の仮面(ペルソナ)』で何度も指摘しているとおり、中国で豊かになりつつあるのは総人口13億のうち沿岸部・都市部の「都市中国人」4億のみで、残りの9億の「農村中国人」は医療保険制度もない、貧しい暮らしを強いられている。もしネルフィナビルの製造企業が、特許を逆手に高値を吹っかけて来たら、このSARS治療薬のニュースは中国にとって、朗報どころか、都市中国人と農村中国人の「泥沼の内戦」の引き金にすらなりかねない。前者は新薬をなんとか買えるだろうが、後者はほとんど買えないからだ。

まだネルフィナビルがSARS治療薬として実用化されていないうちから、筆者は「心配症」に陥り、とりあえず、製造企業を調べてみた。

●ナゾのインフルエンザパニック●
調べてみると、ネルフィナビルは「V」という商品名(敢えて名を秘す)で、Rという欧州企業(同)から発売されていることがわかった。

このR社は、日本の大手バイオ企業J社(敢えて名を秘す)、米国のA社(同)と共同でこのVを開発しており、R社はJ社とA社からVの「中国、台湾、シンガポールをはじめとしたアジア地域における独占的販売権を取得」する契約を97年7月15日に結んでいる(97〜98年に、欧州など他地域での販売についてもR、J、Aの3社で契約が結ばれ、世界で3社がVの利益を「山分け」する態勢が確立している。J社のホームページより)。

興味深いことに、R社は、Vと無関係なインフルエンザ治療薬の問題で、ちょっとしたスキャンダルを起こしている。
02年12月から、香港に近い広東省など中国南部ではインフルエンザによる「非典型肺炎」が流行し、03年2月上旬までの2か月間で305人の患者が出、うち5人が死亡していた。英字紙チャイナデーリーや人民日報など中国の官製メディアによると、03年2月9日、R社は広東省広州市で記者会見を開き「この肺炎の正体は、鳥類のインフルエンザがヒトに感染したもの」で「その治療には、R社製の抗生物質が有効」と発表した( 人民日報Web版03年2月17日 尚、 英BBCでは、記者会見の日は2月8日)。

その結果、広東省では「R社の抗生物質が謎のインフルエンザに効く」という噂が広まり、同治療薬(2錠入り1箱で59人民元、7米ドル、約840円)の売り上げが急増し、広東省では2月8〜13日だけで10万5000箱が売れた。

このブームに乗じて、150以上の薬品関連の企業や販売店が、同治療薬だけでなく、他の薬品の価格も違法に吊り上げ、暴利を貪り、広東省政府の物価監視当局の立ち入り検査や営業停止命令を受けた。噂は香港にも飛び火し、治療に無関係な酢の価格まで10倍に急騰した。

2月16日、広東省衛生当局は「広東省で肺炎と鳥類インフルエンザが流行している、という噂をR社が(自社製品の売り上げを伸ばすために)流したと判明すれば、同社は厳重に処罰される」と述べ、また「305人の患者のうち約8割は退院し、新たな患者はもう出ていない」「この病気は制圧された」と強調した(人民日報前掲記事)。これに対して、R社(欧州本社)の広報担当は、噂の震源は、2月13日に広東省内に流れた携帯電話のショートメールだと反論した。

R社の広報担当はウソつきだ。13日の携帯電話メール送信の前から、R社の抗生物質に対する需要は急増しており、9日の記者会見が噂の背景にあるのは間違いない。

しかし、広東省当局はもっとウソつきだ。
上記の「インフルエンザによる非典型肺炎」とは、言うまでもなく、SARSのことだが(世界保健機関WHOによりSARSと命名されるのは3月)、この2月の時点でSARSは「制圧された」どころか、その後も流行が続いており、広東省政府、北京の中国政府衛生省ともに流行の事実を隠し続けて、4月3日には北京で偽りの制圧宣言(産経新聞Web版03年4月3日)まで出したが、この間にSARSは中国国内から世界中に広がった。

とくに4月3日の「制圧宣言」のあと、4月6日に北京で、ILO(国際労働機関)幹部のフィンランド人が肺炎で死亡したため、中国政府のメンツは丸つぶれとなった(但し、同幹部の感染源は不明。 読売新聞Web版03年4月7日)。

すると中国政府は、4月7日付の人民日報(報道機関ではなく、中国の独裁政党・中国共産党の広報紙)で、一転してR社を礼賛し始める:

「世界屈指の巨大製薬企業R社は、同社の世界市場での売り上げに占める、中国市場での売り上げの比重を、今後5年間で現在の1%から3〜5%に引き上げると発表……中国人のヘルスケア支出が増えるにつれ、同社の中国市場での売り上げは伸びると期待される、とR社上海現地法人のゼネラルマネージャーは語った」

94年の中国進出以来「この9年間で、R社は中国市場でめざましい成長を維持し、ここ数年間は毎年2桁の売り上げの伸びを記録」と語る同マネージャーは、スイスのノバルティス(Novartis)社がR社を買収をするという報道を否定し、R社は議決権のある発行済み自社株式の過半数を09年まで、同社とそのグループ企業、役員らで保有し続けると明言( 人民日報Web版03年4月7日)。

4月6日のILO幹部の死で、もはやSARS禍は隠せないと悟った中国政府は「肺炎の噂を広めたR社」を非難できなくなり、上海に工場を持ちビタミン剤などを生産するR社に、ゴマすりを始めたのだ。
そして4月20日、中国政府は、それまで控えめに発表していたSARS患者数を、ついに正直に公表した( 読売新聞Web版03年4月21日)。数字が一気に9倍に跳ね上がったので、世界は驚き、中国政府の情報隠しと無責任な態度に怒った……というのは、周知の事実だ。

【但し、中国国内の患者は、広東省(の省都・広州)や北京では多いのに、最大の都市、上海ではほとんど出なかった。ちなみに、R社の中国の現地法人は上海のみにあり、北京、広東省にはない(東アジアではほかに、東京、ソウル、台北、シンガポールにはあるが、香港にはない)。】

中国政府から「無罪放免」とされたR社は、4月28日、03年7月末までにSARSウイルスの新しい検査キットを開発し出荷したいと発表した(カリフォルニア大学サンフランシスコ校・小児科病院ホームページ)。

●SARS前史●
しかし、R社がデマを流した、という事実は、まだ消えていない。2月9日の記者会見でR社は、同社製の抗生物質が、謎のインフルエンザ(肺炎)に効くと言ったのだが、謎の肺炎の正体が新型コロナウイルスによるSARSと判明した4月以降、その抗生物質がSARSに効くという事実は確認されなかった。

SARSは4〜5月に中国、香港、台湾、シンガポールなど中華文化圏を中心に全世界で猛威をふるったあと……中国政府などの対策が奏効したからか、それともSARSウイルスが元々蒸し暑い夏の気候に弱いからか(小誌03年7月3日 「真冬に再燃」を参照)は不明だが……治療薬がみつからないまま沈静化した。

そして03年7月15日がやって来る。
この日、上記の如く東京医歯大などがR社製のエイズ治療薬VがSARSに効くことを「発見」する。同じ日、R社欧州本社は、すでに世界でSARS検査に使われている、R社が特許を持つPCR検査法をベースにした、新検査キットの出荷を発表する( ロイター03年7月15日)。このキットは、従来のものと異なり、患者がSARSを発症していなくてもSARSウイルスを検出できる点で、画期的なものだ。

但し、2つのニュースのうち前者は日本ではNHKでも朝日新聞でも(R社の社名を伏せて)報道されたが、R社のホームページを含む海外メディアで一切報道されず、逆に、後者は日本では、大手メディアでもほとんど報道されず、R社傘下の日本企業C社(敢えて社名を秘す)のホームページにも掲載されていない(産経新聞03年7月21日付朝刊1面の記事「巨額利益生む特許争奪加熱」は、ネルフィナビルの名は出したが商品名Vと製造企業名Rを伏せ、あたかも東京医歯大と京大に開発特許があるのかと誤解させるような内容だ)。

このような情報の分断(国別の報道管制?)があり、しかも「R社が採算を度外視した低価格(単価10〜15米ドル)で検査キットを出荷する」という報道もあるので( UPI Web版 03年5月11日SARSウイルス最前線)欧米のマスメディアでは「R社はSARS対策に関して人道的な態度を取るりっぱな企業」というイメージになっているに相違ない。間違っても「03-04年冬季にSARS禍が再来した場合、いちばん儲かるのはR社」などと思う者は、現時点では欧米には(日本にも)いないだろう。

ここで、上記の山本・東京医歯大教授の言葉「(Vは)すぐに臨床に使える可能性が高い」を想起されたい。
「すぐに…」ということは、03年末か04年初頭、SARSウイルスが再び活発化するとされる、次の冬にSARSが再流行した場合「すぐに」いちばん儲かるのは、間違いなくR社だということだ。

が、これに気付くには、日本語と英語をともに理解でき、R社の社名とSARS、ネルフィナビル(Nelfinavir)などのキーワードを検索サイトに何度も入力して「AND検索」で情報を収集する必要がある。

が、それでも、十分でない。なぜならSARSという言葉が生まれたのは3月であり、それ以前は、SARSは "atypical pneumonia"(非定型肺炎、非典型肺炎) "chicken flu" "bird flu" (鳥類インフルエンザ) "flu-like illness"(インフルエンザのような病気) と呼ばれており、上記の検索方法では、R社が03年2月9日に開いた記者会見(誤報の流布)の記事はヒットしないからだ(ちなみに、Vは抗生物質ではないし、もちろんSARSは鳥類インフルエンザではない。したがって、03年2月9日のR社の記者会見の内容は依然として誤報のままだ)。

筆者は幸運にも『ゲノムの方舟』を執筆したことで「バイオテクノロジー戦争」を理解する感覚を磨いており、『龍の仮面(ペルソナ)』の執筆を通じて中国の事情にも詳しくなり、かつ、日本語と英語の多様なWeb情報を日常的に読んでいたので、おそらく(R社や中国政府の関係者以外では)世界でほとんど唯一、例外的に以下のような事実を発見することができた:

「SARSには、SARSという言葉が生まれる前に『SARS前史』ともいうべき段階があり、その段階でR社は、SARS治療薬に関する誤報を流して中国南部をパニックに陥れて利益を上げた。が、不思議なことにR社は、中国政府から責められることはなく、それどころか、03年7月には治療薬、検査法の両面で突如、SARS関連ビジネスのトップに踊り出て、もしSARSが今後再流行すれば、莫大な利益を上げる可能性が高い」

●だれがSARSを作ったか●
さて、だれがSARSウイルスを作ったのか?……R社だ、と短絡的に結論を求めてはいけない。 たしかに世界第6位の巨大製薬企業であるR社の技術力を持ってすれば、R社の手持ちの治療薬Vが効くように病原体を作って、医療インフラの貧弱な中国をねらってばら撒くことは、簡単にできる(拙著『ゲノムの方舟・文庫版』の解説を参照。尚、 「解説」は文庫版にしかない)。病原体に合わせて治療薬を創るのは大変だが、既存の治療薬に合わせて病原体を創るのは簡単だ。

R社が、少なくともR社だけが、SARSをばら撒いて金儲けを企んでいるのなら、それだけでいい。世界中にSARSへの恐怖が浸透したあと、頃合を見計らって「幸運にも治療薬がみつかりました、検査法も開発できました」と発表すれば、それだけでR社の株価は急騰し、たとえノバルティス社がR社の敵対的買収をたくらんでいたとしても、容易に跳ね返せるだろう。

そうなのだ。単純にR社が「単独犯」で金儲けをしたいだけなら、03年2月の「誤報記者会見」はやる必要がないのだ。これが説明できないと、「単独犯行説」は完全には成立しない。

その謎解きは次回以降に。

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■中国vs.製薬企業〜シリーズ「SARSの方舟U・だれがSARSを作ったか」(2)■
前回より続く。「シリーズ・SARSの方舟」全体では8回目。】

03年7月15日、東京医科歯科大学と京都大学の研究グループは、欧州の某巨大製薬企業(R社とする)が、日本の大企業(J社とする)などと共同で開発したエイズ治療薬ネルフィナビル(商品名は別にあるが、Vとする)が、SARS(重症急性呼吸器症候群、新型肺炎)の治療に「すぐに」使える可能性があることを発見した。同日、R社は、SARS患者がSARSを発症する前の、潜伏期間中でも感染の有無を検査できる、画期的な検査キットを出荷すると発表。突如R社は、治療、検査の両面でSARS関連ビジネスのトップに立つ可能性を示した。
このシリーズでは、SARSウイルスがR社によって人工的に作られたかどうかを検証している。

●貧困国 vs. 製薬企業●
R社の商品V(ネルフィナビル)には「負」の歴史がある。貧しい発展途上国のエイズ患者や、彼らを支援するNGO(非政府組織)から、その売り方を非難されてきたのだ。

R社は、Vの開発には莫大な投資をしたのだから、Vの発売当初は当然、それが回収できるように適正にVの価格を設定した。が、その価格は、エイズ患者の多い途上国(とくに、サハラ以南のブラックアフリカ諸国)にとっては、到底購入不可能なほど高かった(01年春までに、途上国向けの値下げが行われたが、それでも患者1人あたり年間3,087米ドル、約36万円)。

おもなエイズ治療薬(抗エイズ薬)としては、米メルク社のインディナビルとR社のVがあるが、それぞれの副作用の特徴から、途上国ではインディナビルへの需要をVのそれが大きく上回っており、V以外に選択肢のない国が多い(アフリカ日本協議会「AJF」ホームページ 02年7月「ダーバンからバルセロナへ 全てのHIV感染者への治療実現を」)。

にもかかわらず、R社の設定価格が高いため、多くの途上国のエイズ患者がVを入手できずに死んでいく、という現象……すなわち、R社の先端バイオ技術を「使わせない」ことによって人を殺す「消極的生物兵器戦争」(ネガティブ・ウォー、消極戦。これは筆者の造語なので、拙著 『ゲノムの方舟・文庫版(上)』第一章の註を参照)が、深刻になっていた。

途上諸国とNGOはR社の「ネガティブ・ウォー」に怒り、アフリカほどではないがエイズ患者の多いブラジルでは、01年春、政府が、R社のネルフィナビル(V)に対する特許を無視して類似商品(コピー薬)を製造することを国内の製薬企業に認可すると宣言。これにあわてたR社は、途上国向けVの価格をブラジルに限って、1人あたり年間3,087米ドルから3割引きの2,101米ドル(約24万円)にすると発表し、さらに02年4月には、ブラジル以外の途上国(最貧国およびサハラ以南のブラックアフリカ諸国)向けのVの価格もほぼ同額まで下げた。

ブラジルは、最貧国でもサハラ以南でもないが、総人口1億7602万(エイズの生存患者数54万)の大きな国内市場と、コピー薬を製造できるだけの技術力を持っていたがゆえに、Vの大幅な値引きを勝ち取ることができた(AJF前掲記事)。

そして、R社(の株主たち)にはここで、投下した資本に見合わない「不当な」安値を強いられ、「逸失利益」が生じた。R社の経営者は当然、いつかこれを取り返さなくてはならない。

とくに、R社とともに00年5月の発足当初からエイズ治療薬への「アクセス促進イニシアティブ」(AAI)に参加してきた米ブリストル・マイヤーズ・スクイブ社が別のエイズ治療薬に関して、サハラ以南の最貧国には割引価格を設定しているのに、中南米諸国に対しては「毅然として?」割引を拒否していることから(AJF前掲記事)投資家の目にはR社のブラジルへの態度は「弱腰」と映るだろう(もっともブリストル・マイヤーズ・スクイブ社はべつに「毅然としていた」訳ではなく、ただ、同社製品のコピー薬を造るのが、中南米諸国には技術的に難しかっただけかもしれないが)。

【AAIについては、日本製薬工業協会(JPMA)ホームページ02年7月4日「IFPMA(国際製薬団体連合会)、G8参加国政府首脳に対し発展途上国での医薬品アクセスに関する製薬産業の貢献をアピール」の 添付資料を参照。】

●中国 vs. 製薬企業●
エイズ患者は以下の表のように、ブラックアフリカ、中南米など黒人の多く住む地域に多い。

[各国のエイズ患者数と感染率]
国 名 生存 エイズ 患者 (推定) 総人口 (推定) (子供も含む) 成人の エイズ 感染率
ボツワナ  29万 (99年) 159万1232 (02年7月) 35.8 % (99年)
南アフリカ  520万 (00年) 4364万7658 (02年7月) 19.94% (00年)
ブラジル  54万 (99年) 1億7602万9560 (02年7月) 0.57% (99年)
インド  370万 (99年) 10億4584万5226 (02年7月) 0.7 % (99年)
中国  125万 (01年) 12億8430万3705 (02年7月) 0.2 % 以下 (00年)
タイ 75.5万 (99年) 6235万4402 (02年7月) 2.15% (99年)
米国  85万 (99年) 2億8056万2489 (02年7月) 0.61% (99年)
日本 1万 (99年) 1億2697万4628 (02年7月) 0.02% (99年)

(資料:米CIA「The World Factbook 2002」)

アジアは感染率では、ボツワナ、南アフリカなどブラックアフリカ諸国に遠くおよばないものの、総人口が大きいので、インド、中国などではエイズ患者の絶対数が多い。両国はコピー薬製造も得意としているので、ブラジルと同様の立場でコピー薬の製造を視野に入れている(日経新聞02年11月28日付朝刊「製薬特許権を緩和 WTO新制度案」)。

上の表の如く、エイズは、全アジア的、全世界的な病気であり、「その治療薬を安い価格で患者の手に」という国際世論は広範な裾野を持ち、途上国政府にも先進国のNGOにも支持されている。だから、いずれ中国も「ブラジル並み」に値引きされたV(ネルフィナビル)を手に入れるだろう………と楽観してはいけない。

03年7月15日以降、V(ネルフィナビル)を取り巻く情勢はがらりと変わった。
いまやVは、ただのエイズ治療薬ではなく、SARS治療薬でもある。
しかも、SARS患者は、エイズ患者と違って、インドやアフリカやブラジルにはほとんどいない。SARSは、02-03年冬季の、最初の流行では、中国、香港、台湾、シンガポールの中華文化圏だけで世界の患者総数の9割を占めるという「人種特異性」のある病気だった。

このうち、香港、シンガポールの所得水準は旧宗主国・英国に勝るとも劣らず、台湾も同様に豊かな国だ。
また、中国も、ブラジルやボツワナのような「貧しくてかわいそうな国」とはだいぶ趣きが違う。

03年11月、中国は国産有人宇宙船を打ち上げ、米露に次ぐ史上3番目の有人宇宙飛行国となる予定だ。もちろん、宇宙開発技術はすべて軍事技術であり、米国が同盟国と、人工衛星や精密誘導技術を駆使して開発中のミサイル防衛(MD)構想に対抗するためのものだ。つまり、中国は軍拡を宇宙にまで広げ、その実力を誇示して米国と対決する姿勢を示し、米国をはじめ世界を威圧しようとしているのだ。

SARSの次の流行は、おそらく03-04年冬季、つまり03年11月以降だ。順調に行けば、世界は今年(03年)後半、中国の「宇宙軍拡」のニュースあと、中国でのSARSの再流行の報道を目にすることになる………その場合「かわいそうな中国」に同情する国際世論は、はたして起こるだろうか?

中国は日米など先進国から莫大な貿易黒字を稼ぎ、08年には北京五輪の開催も控えており、さらに(台湾を実効支配していないくせに)台湾住民が中国から独立する意志を明確に示したら武力で制圧する、として台湾海峡に弾道ミサイルを450基も並べて威圧している(産経新聞03年8月1日付朝刊7面)。どう見ても中国は、成人のエイズ感染率が4割近い、貧しい非核保有国ボツワナのような「かわいそうな国」ではない。

となると、中国がボツワナなどと「共闘」して、SARS治療薬としてのV(ネルフィナビル)の値引きを求める運動をする、という構図はとても成り立ちそうもない。おそらく世界のNGOも「宇宙軍拡」を進める中国には同情しないだろう。R社にしても、アフリカやブラジルの場合と違って、中国に関しては、製品価格を値引きすべき人道上の理由はない、と判断するだろう。高値を吹っかけて儲けるなら、国際世論対策上も、ボツワナより中国から儲けるべきなのは明らかだ。

まさに、製薬会社から見て、中国は、ネガティブ・ウォーの格好の標的だ。R社(の株主たち)は、アフリカ向け、ブラジル向けの値引きで生じた「逸失利益」を取り返すチャンスを、中国に見出すだろう。

●中国の失敗●
ただ、そうは言っても、中国にはコピー薬の製造技術はある。中国は03年4月に完了した国際協力プロジェクト「ヒトゲノム解読計画」にも、米英日独仏とともに、分担率は最下位ながら参加しており(分担率は米59%、英31%、日6%、仏3%。残りは、独中はあわせて1%。 フォーリン・プレスセンター ホームページ 03年4月24日)一定のバイオ技術は持っている。

たとえ国際世論の支持がなかろうと、中国はR社を「Vを安く売らないのなら、中国国内におけるR社の特許を無効にして、国内企業にVのコピー薬を造らせるぞ」と脅すことはできる。

ところが、03年2月以降、この「恫喝」は非常にやりにくくなった。それは、あの奇妙な事件のせいだ。
それについては、次回。

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■中国のバイオ敗戦〜シリーズ「SARSの方舟U・だれがSARSを作ったか」(3)■
前回より続く。シリーズ・SARSの方舟」全体では9回目。】

●貧しい超大国・中国●
前回述べたとおり、R社は「Vの価格が高すぎる」とブラジルやブラックアフリカの貧しい発展途上国から非難され、大幅な値引きを余儀なくされていた。
次の冬(03年11月〜04年4月)に、SARSが中国で再流行する可能性はかなりあるが、そうなると、Vは中国で、こんどはSARS治療薬として売ることができ、R社はブラジルやアフリカで生じた「逸失利益」を取り返すことができる。
しかも、中国は、ブラックアフリカ諸国と違って「貧しい発展途上国」とは言い難い面がある。

[各国のGDP(国内総生産)と貧困線以下の人口比]
国 名 GDP(国内総生産) 国民1人あたりGDP 貧困線以下の人口比
ボツワナ  124億 (01年) $ 7,800 (01年) 47% (00年)
南アフリカ  4120億 (01年) $ 9,400 (01年) 50% (00年)
ブラジル  1兆3400億 (01年) $ 7,400 (00年) 22% (98年)
インド  2兆6600億 (02年) $ 2,540 (02年) 25% (02年)
中国  6兆0000億 (02年) $ 4,600 (02年) 10% (01年)
タイ 4100億 (01年) $ 6,600 (01年) 13% (98年)
米国  10兆0820億 (01年) $36,300 (01年) 13% (01年)
日本 3兆5500億 (02年) $28,000 (02年) NA

(単位:米ドル、購買力平価による推計値。日本はGDPの絶対額は大きいが物価が無駄に高いので、国民全体の購買力はその分小さく、購買力平価で見たGDPは中国より、同じく1人あたりGDPも米国より、それぞれ小さい)
(資料:米CIA 「The World Factbook 2002」)

上の表は、為替レートの、実態経済を反映しない過剰な変動の影響を排除するため、購買力平価で見ている。このため、人口13億の中国のGDP(国内総生産)は、日本の2倍もある。
しかし、1人あたりGDPで見ると中国は、日本はもちろん、成人のエイズ感染率が4割近くもある、あの、アフリカのボツワナよりも貧しい国である。

この矛盾は、中国の地域格差によって説明できる。
中国は、都市戸籍を持つ4億の「都市中国人」が、農村戸籍を持ち都市への移住を制限された9億の「農村中国人」を差別、搾取するアパルトヘイト(人種隔離)社会だ。80年代までの南アフリカ共和国の黒人のように、現在の農村中国人は差別され、貧しいまま留めおかれ、その労働力を都会の金持ちや企業から安く買いたたかれている。

この結果、中国はGDPの総額は超大国並みに大きいのに、それを国民1人あたりで平均すると最貧国並みに貧しい、ということになる。
中国のことを「21世紀の超大国」ともてはやす論調が日本のマスメディアには多いが、それはこの現実を無視した意見だ。
「超大国」に向かって成長を続けているのは、都市中国人の住む都市部、沿岸部だけで、農村中国人の住む農村は、最貧国のままなのだ。

中国は、あるときは超大国のように振舞って、国連安保理で(常任理事国として)拒否権の行使をちらつかせ、また核兵器や弾道ミサイルで台湾を脅し、東南アジアやアフリカの国々に(偉そうに)経済援助を与える。その反面、中国は、都合のいいときだけ途上国としての側面を強調し、WTO(世界貿易機関)の会合で「わが国は(貧しい)途上国なので、エイズなどの治療薬を安く手に入れるために、外国の製薬企業の国内特許を無効にして、国内企業にコピー薬を造らせたい」などと言うし、日本からの円借款などの政府開発援助(ODA)も、「貧しいからもらって当然」という顔をする。

しかし、このような「ご都合主義」も03年11月以降は……中国が11月に予定されている有人宇宙飛行に成功してしまうと、世界にその「宇宙軍事大国ぶり」が印象付けられるので……難しくなる。

だいたい中国は、日米の2大経済大国からあわせて、年間1000億ドルを上回る貿易黒字を稼いでいる国であり(02年実績。 日本貿易振興会「JETRO」Web 03年2月18日)そのような「富裕国」が、製薬会社に「わが国の貧しい患者のために、貴社製薬品の値引きを」と訴えても、なんの説得力もないのだ。

●違法コピー大国・中国●
とはいえ、中国はコピー薬を製造する技術は持っている。もし03年11月以降、SARSが中国で再流行し、かつR社がVの中国での値引き販売を渋ったら、中国政府は、01年のブラジル政府と同じことをすればいい。
すなわち「Vの特許を国内では無効にするので、今後は中国の国内企業は自由にVと同じ成分の薬品(コピー薬)を製造でき、安く販売することができる」と宣言すればよいのだ。そうすれば、R社は「コピー薬メーカーに丸儲けされるよりはまし」と考えて値引きに応じる、と中国政府は期待できる(現に、R社は01年、ブラジル政府の脅しに屈してVのブラジル向け価格を32%も下げている)。

●「金持ちの証明」が致命傷●
ところが、この「脅し」は、ブラジルには使えても中国には使えない。
理由は、03年2月の広東省での「薬価高騰パニック」だ。

前々回、03年8月4日配信の記事で述べたように、03年2月、R社は、自社製の抗生物質(Vは抗生物質ではない)が中国南部で流行中のインフルエンザ肺炎(のちに新型肺炎SARSと判明)に効く、と誤報を流し、広東省で薬価の暴騰を招き、住民をパニックに陥れていた。この既成事実の意味は大きい。

価格が暴騰する、ということは「高くてもいいから買いたい」という金持ちが大勢いることの証しだ。
このとき、広東省住民は「SARS治療のためなら、惜しまずカネを出す」ことが判明した。つまり、中国では「あるところには、十分にカネがある」ことがはっきりし、SARSが生命にかかわる重大な病気だからといって、必ずしもその治療薬を値引きしてやらなければ「人道上問題になる」わけではないことが、国内外に知れ渡ったのである。

●誤報記者会見の意図●
前々回述べたように、パニックのもとになったのは、R社の抗生物質が新型肺炎(SARS)に効くという、誤った内容の、R社のプレスブリーフィング(誤報記者会見)だ。

ということは、結果的にはR社は(近い将来の、中国でのVの発売を見越して?)「中国では、あるところには、十分にカネがある」ことをあらかじめ証明しておいたことになる。なんと運のいい会社だろう。これで、R社はブラジルで犯した過ちを中国で犯さずに済むのである。つまり、ブラジルやアフリカで値引きして失った利益を、中国で取り返せるのだ。

【そもそも、東京医歯大と京大の「発見」が幸運すぎる。SARS治療薬の研究をするには、研究試料となるSARSウイルスそのものが必要だが、それはSARSの蔓延した中国、米国、カナダなどにはたくさんあるが、結局患者ゼロで02-03年冬の流行期を終えた日本にはほとんどない。日本は他国から試料のウイルスを2株しか分けてもらえず、研究では相当に苦戦したが、その2株のうち1株から、世界でいちばん早く実用化できそうな臨床薬Vの効用を発見できたというのだ!
(^_^;)】

03-04年冬季以降に、中国の都市部および農村部でSARSが流行した場合:

もし中国政府が「(Vのコピー薬製造のため)R社の中国国内での特許を無効にする」と言ったら、R社は上海の現地法人を閉鎖して中国から出て行く、と中国政府を脅せばいい。結局、SARS患者向けのVは、R社の上海工場で量産されることになろう(そのほうが、江沢民前国家主席らの「上海閥」の利益にもなる)。

もし中国政府が「コピー薬の製造は諦めるから、代わりにVの価格を下げろ」と言ったら、R社は「わが社が安く卸しても、それは農村には行かないで、都市部の薬屋に横流しされて、暴利を貪る者が出る(R社がどんなにVの価格を下げようとしても下がらない)のは、03年2月の広東省での薬価暴騰事件で明らかだ」と反論できる。

かくしてR社には、中国にVを安く売る理由はなくなり(逆に上海市には高く売れる製品としてVを「現地生産」してもらいたい理由があり)、中国は、Vを安く農村中国人に届けるには「R社から高く買って農村で無料で配る」しかない。

結局「中国 vs. R社」の戦いは(SARSが中国で再流行すれば)現段階ではR社の圧勝になりそうに見える。

中国政府には、R社への「借り」があるのが痛い。
前々回、03年8月4日配信の記事で述べたように、03年2月9日のR社の「誤報記者会見」について中国政府(広東省衛生当局)は怒ったが、それは(効きもしない抗生物質が新型肺炎に効くという誤報を流したことに対して怒ったのではなく)当時中国政府が流行の事実を隠したかった新型肺炎(SARS)について「流行していると発表したのがウソだから、けしからん(厳重に処罰すべし)」ということだった。

ところが、周知のように、やがてR社もさることながら、中国政府の発表こそが「誤報記者会見」であり、SARS禍を隠蔽しようとしたことが世界に明らかになり、一転して中国政府はR社に頭が上がらなくなる(その、中国政府の「平身低頭ぶり」は、中国共産党の広報紙・人民日報の「ゴマすり記事」に如実に表われている。 03年4月7日付英語版を参照)。

中国は「報道の自由」のない中国共産党独裁体制の国であり、権威主義の国だ。
そのような国では、国の独裁者(江沢民、あるいは中国共産党の党組織)の威信にかかわるような重大イベントをスキャンダルで汚すことは許されない。02年11月には中国共産党大会があり、江沢民は党総書記のポストを、03年3月には全国人民代表大会があり、国家主席のポストを、それぞれ胡錦涛に譲って引退の花道を飾る予定だったので、その前後に「国内で奇病が蔓延している」というニュースが流れることは好ましくなかった。だから、2つの行事が終わる03年4月まで、中国政府はSARS大流行の事実を公式には認めなかったのだ。

中国に進出し、江沢民の「お膝元」の上海に現地法人を設立して9年、R社はこうした中国政府と共産党の情報隠蔽体質を十分知り尽くしたうえで、03年2月9日の誤報記者会見を開いたのではあるまいか。

そうすれば、R社のウソ(抗生物質が新型肺炎に効く)をはるかに上回る大ウソ(肺炎はすでに制圧された)を中国政府がつき、それがウソとばれたとき、中国政府はR社に頭が上がらなくなり、R社の(小さな)ウソは不問に付されるからだ。

また、R社の小さなウソで、薬価暴騰パニックを引き起こしておけば、中国の「金持ちの証明」ができて、将来予定されているSARS大流行の際に、Vの値引きを迫られなくて済むだけでなく、「いったい中国人はどこまで高い新薬を買えるのか」という、都市中国人の薬品購買力の「測定」も可能になる。

03年2月の薬価暴騰パニックなどを通じて、もう十分に「マーケティング」はできたはずだから、03-04年冬季以降にSARSが中国で再流行すれば、R社はもっとも適正な価格でVを中国で販売できる。
売り上げも利益も、事前にかなり高い確度で計算でき、ブラジルでVを売ったときのような大幅な「逸失利益」もない。

R社にとって、中国はまさに「21世紀の成長センター」であり「(SARS患者の)超大国」だ。

●第二次阿片戦争●
19世紀の中国にはさまざまな伝統手工業があり、西洋の工業製品をほとんど輸入する必要がなかった。また、食糧も自給自足が可能で、西洋から買いたいものなど何もなかった。

そのうえ、中国にはお茶という有力な輸出品があった。冷蔵庫がなく、船が主要な交通・運輸手段であった当時、西洋の船乗りにとって、アルコールと違って喧嘩や操舵ミスの原因になる恐れがなく、かつ、ミネラルウォーターと違って冷蔵する必要のない、唯一安全で衛生的な飲み物は、お茶だった。

そのお茶の葉を、19世紀の欧州は自給できず、中国から輸入するほかなかったから、欧米列強の中国に対する貿易収支は恒常的に大幅な赤字となり、大量の正貨(銀)が流出し、中国は世界の「デフレ要因」となっていた。

そこで、仕方なく、欧州(英国)は中国に阿片を輸出した。当時の中国(清朝)政府が拒否すると、英国は武力に訴えて押し売りし、いわゆる「阿片戦争」が始まった。それ以外に、対中貿易赤字を解消し正貨を回収する方法がなかったからだ(ヘンリー・ホブハウス『歴史を変えた種』パーソナルメディア87年刊)。

この阿片戦争直前の時代と同様に、21世紀初頭の中国も、世界のデフレ要因である(03年7月3日配信の小誌記事 「真冬に再燃」や産経新聞03年7月1日付朝刊1面「人民元上げ 米が圧力」を参照)。日米欧など先進諸国(列強)は中国から安い工業製品を輸入させられ、その結果大勢の失業者を国内に抱えることになり、そして対中国貿易収支はみな赤字である。

欧州のR社、日本のJ社、米国のA社が共同開発したVと、Vが効くようにデザインされたSARSウイルスが、中国に導入されて、Vの売り上げを通じて、中国が先進諸国から稼いだ貿易黒字の一部が先進諸国に還流するのなら、その構図はまるで、第2の阿片戦争だ(R社は、J社、A社と結んだ契約で、中国でのVの独占販売権を持っているが、ロイヤルティはR社から両社に均等に分配される。前々回の記事を参照)。

筆者は前々から、都市部と農村部の凄まじい経済格差(による、内部対立)や、1人っ子政策の副作用としての急激な人口の高齢化などにより、まもなく中国は衰退する恐れがある、と小誌や小説『龍の仮面(ペルソナ)』で述べてきたが、R社による「第二次阿片戦争」計画が事実なら、中国の没落を確実にする要因がまた1つ増えたことになる。

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■中国vs.中国人民〜シリーズ「SARSの方舟U・だれがSARSを作ったか」(4)■
前回より続く。「シリーズ・SARSの方舟」全体では10回目。】

●中国の高齢化●
99年、クリントン米民主党政権で唯一の共和党員だったコーエン国防長官のもとに、政治、軍事、経済の専門家が結集し、今後四半世紀のアジア情勢を予測する研究が行われ『アジア2025』と題する報告書にまとめられた。

主催が米国防総省なので「どうせタカ派が中国の悪口を書いたのだろう」などと偏見を持ってはいけない。同報告書は、米国のとるべき軍事政策の提言を結論とするが、それを導く分析では、客観的な統計、とくに人口動態に基づく冷静なシミュレーションを重視しており、けっして「タカ派のたわごと」などではない。
同報告書のもっとも重要な指摘は、中国はまもなく急激に高齢化社会に突入し、経済成長が鈍化する、というものだ。

「日本は豊かになってから高齢化したが、中国は豊かになる前に高齢化する」というその単純明快な指摘は、中国が日本並みの先進国になることは永久にありえないことを「宣告」するものだが、ごく常識的な人口論に基づいており、説得力がある。

どこの国でも高齢者は引退や失業、病気により所得が少なくなり、その反面、医療・福祉予算を若年・壮年層より多く必要とし、また、そうであるがゆえに貯蓄も必要とし、あまり多くの消費をしない。納税額は少なく、国庫からの福祉予算などの「持ち出し」が多い。高齢化とは、相対的に若年・壮年労働者が減って高齢者が増えることであり、それはすなわち国家財政の逼迫と、経済成長要因の1つである個人消費の停滞をもたらし、経済成長率を下げることになる。

日米欧の先進諸国では、国が豊かになるにつれて、女性の地位の向上(高学歴化による晩婚化など)によって出生率が下がって高齢化が始まり、70年代を過ぎると経済成長率も下がった。が、すでに国力が十分高くなっており、インフラもかなり整備されているので、もはや高度成長は必要ないから問題ない。

ところが、中国の場合は、国が大して豊かになってもいない80年代に、60〜70年代の毛沢東独裁政権下で野放図に増えた人口を抑制するため「計画出産工作」(1人っ子政策)を導入して出産を政府の許可制とし、不倫で妊娠した者やチベット人など少数民族の女性には中絶手術や不妊手術を強制することまでして強引に出生率を下げた。
このため不自然に早く高齢化が始まり、まもなく、あと数年か十数年もすれば、国全体がろくに豊かにならないうちに高度経済成長が終わってしまう運命にある。

1人あたりGDPで見ると、現在の中国は、国民の4割がエイズ患者というアフリカの弱小国ボツワナよりも下なのに( 前回の表を参照)早くも「高齢化」だ。これでは、中国を世界の成長センターとみなして、中国への投資や輸出で稼いでいる日米欧など先進諸国の企業はたまらない。

●親中国派の「中国観」●
評論家の財部(たからべ)誠一はよく訪中し、中国のめざましい成長ぶりについて取材し証言する「中国通」だ。但し、彼のような「(自称)中国通」がよく知っている中国とは、都市戸籍を持つ4億の豊かな「都市中国人」が住む沿岸部、都市部のことだ。

中国政府は、農村戸籍を持ち、都市への移住を制限された9億の貧しい「農村中国人」の惨状を隠すため、西側諸国のジャーナリストはそう簡単に貧しい農村部には行かせないし、たとえ行かせても、絶対に都合の悪いものは取材させない。

財部は03年7月13日にもテレビ朝日の『サンデープロジェクト』に出演し「最近の日本の株高は、中国のお陰」「中国は世界のデフレ要因どころか、日本の輸出先として重要」と述べた。が、彼の礼賛する中国とは「都市中国」であって「農村中国」ではない。まもなく、高齢化が深刻化すると、農村中国には貧しい高齢者が増え、中国の経済成長にとって深刻な「お荷物」となる。

●「農村中国」の悲惨●
このような貧しい農村中国を、SARSの再流行が襲ったらどうなるか?
SARSの最初の流行期(02年11月〜03年5月)には、たまたまSARS大流行は都市部に留まり、農村部におよばかったが、今後もそうである保証はない。

というより、筆者が推理するように、SARSが、R社の利益のために人工的に造られた「生物兵器」なら、今後は毎年(自然界の突然変異で少しずつ形が変わったと見せかけて)「改良(悪)型SARSウイルス」が手を変え品を変え、ばら撒かれ「風土病化」することになろう。そうすれば、世界中の観光客やビジネスマンが中国へ行くのをためらうから、中国経済は大打撃を受ける……かというと、そうでもない。

●ピラミッド構造の維持●
一般に人は、年齢を重ねるに連れて、妻子の扶養、自身の老後の備え(貯蓄)などのために、より多くの収入を必要とするようになるが、自身が15〜25歳のときに必要な収入はさほど多くない。

他方、工場の生産ラインで働く工員や流通・サービス産業の店員などは、業務が比較的単純なため若年者でもすぐに仕事を覚えて「一人前」になることができるので、人材養成コストがかからないうえ、彼らの年齢が若いので賃金コストも安く済む。逆に、工員や店員は30歳を過ぎる頃には体力や集中力が衰えて作業効率が低下する反面、結婚や(妻の)出産によって彼らが必要とする収入は増え、賃金コストは上昇する。

そこで「都市中国人」は、農村から賃金の安い、若い農村中国人を都市部に連れて来て期間限定で働かせている。数年間働くうちに、彼ら農村中国人も労働者として待遇改善や賃上げを求める気持ちを抱くようになるが、都市中国人の雇い主たちは、べつに農村中国人労働者の言い分を聞く必要はない。
農村中国人には、西側諸国ではあたりまえの基本的人権「居住・移転の自由」がないので、雇い主は農村中国人に対して「さからったら、農村へ追い返す」という措置が取れる。
いや、さからわなくても、数年間都市部で働いて作業効率の落ちた農村中国人は、順次解雇され、強制的に農村に送り返される。彼らの都市での居住は政府による許可制で、「正当な雇い主がいること」などの条件を満たさないと許可されないので、彼らがよりよい労働条件を求めて都市部に滞留するケースは(皆無ではないが) 公式には多くない。

つまり、都市中国人にとって、30歳以上の農村中国人は必要ないのだ。
中国の経済成長は都市部の成長によってのみ維持されており、農村部は本来ただの「お荷物」でしかないが、賃金の安い若年労働力の供給源ではある。都市中国人にとって、もっとも望ましい農村中国人は、まるで映画『ブレードランナー』に出て来る人造人間レプリカントのように、数年間働いたら「安全装置」が働いて、ころっと死んでくれる者である。
老後の生活を農村で長々と送って、医療・福祉予算を浪費するような「高齢者」の農村中国人は、都市中国人にとっては有害無益だ。

ほんとうは、高齢者だけでなく、労働力として使い物にならない幼少年期の者も要らないのだが、「20歳代の賃金の安い労働力」が育つには、そこに到達する前の段階の幼少年期が必要なので、農村中国人の幼児や少年の存在は、どんなにケチな都市中国人でも容認せざるをえまい。

都市中国人の年齢別人口構成は、昔は出生率が高く、かつ医療インフラの貧しさゆえに高齢者の病死が多かったので、若年人口が多くて高齢者の人口が少ない「ピラミッド型」だった。

80年代以降、人口の過剰は経済にマイナスであると気付いた中国政府は、計画出産工作(1人っ子政策)を実施した。この措置は都市部では厳しく、事実上、夫婦は生涯に子供は1人しか持てない、というものだった(但し、農村では地方政府の財政が貧しく、年金などの社会福祉ではなく「親孝行」で高齢者の面倒をみるほかないので、親の面倒を見る跡継ぎとして「嫁に行かない男の子」が必要とされたため…1人しか産ませないことにした場合、その1人が女の子だと、殺されてしまうので…2人までの出産が認められることが多かった)。

こうして、農村から若者 だけを一時的に移住させることで、中国の都市部の人口のピラミッド構造は維持され、「都市中国」はいまも成長を続けている。

が、いずれ農村が高齢の失業者で溢れ、また都市と農村の経済格差は解消せず、農村の不満が爆発して暴動が起きたり、最悪の場合は、内戦や国家分裂が起きたりする恐れさえある。つまり、いずれ、都市部の人口ピラミッド構造も、それに基づく成長も維持できなくなる運命にあるのだ。

●高齢者キラー●
ところが、もしSARSが毎年再流行するなら、この、人口のピラミッド構造が維持できる。03年6月12日配信の小誌記事 「なぜ日本人は感染しないのか」で述べたとおり、SARSでは子供は死なない。

その原因は不明だが、根路銘国昭・元国立感染症研究所ウイルス第一部室長( 現生物資源利用研究所所長)は、子供と大人では細胞の脂肪が違うからではないか、という仮説を立てている(03年5月13日放送のフジテレビ『とくダネ』)。たとえばコレステロールという脂肪は大人にあり、子供にはない。SARSを起こす新型コロナウイルスは、こういう大人の脂肪のある細胞でしか増えないのではないか、という。

根路銘説を裏付ける確たる証拠はいまのところみつかっていないが、世界中のあらゆるSARS臨床データは、子供の重症患者、死者はいない、という「状況証拠」を提供しており、いずれにせよ「子供は死なない」という事実は揺らぐまい。

つまり、SARSが生物兵器なら、子供は殺さず、高齢者(コレステロールのたまる30歳以上)を集中的に殺す「高齢者キラー」ということになる。

●貧乏人キラー●
また、前回述べたように、SARS治療薬としてもっとも早く実用化されそうなR社の抗ウイルス剤V(ネルフィナビル)は、(1人あたりGDPで見るとボツワナより貧しい)農村中国人にとっては手が出せないほど高価だが、広東省広州市などの、豊かな都市中国人には十分買えることが、03年2月のR社の誤報記者会見に端を発する薬価暴騰パニック(を利用した 「マーケティング」)で十分にわかっている。したがって、Vの無料配給制度など農村部への十分な福祉政策が整わない状態で、中国でSARSが再流行すれば、都市中国人はあまり死なないが、農村中国人の高齢者はバタバタと死んでいくことになる。

これは、中国の人口ピラミッド構造を、成長に有利な形で維持するのに 有益で、都市中国人が農村中国人の若い労働力を搾取し続け、かつ、農村への高齢者福祉予算を、当の高齢者の死亡を理由にカットするのにも都合がよい。

つまり、中国でSARSが繰り返し再流行し、風土病として定着することは、短期的には、観光客や投資の減少で中国経済に打撃を与えるように見えるが、長い目で見ると、中国経済が成長を維持するには好都合なのだ。

●だれがSARS再流行を望むのか●
「中国は21世紀の超大国で、世界の成長センター」などと言う財部のような(自称)中国通は、よほど偏った情報ばかり得ていて、高齢化や都市と農村の地域格差などの中国の深刻な問題を知らないか、あるいは、中国政府から賄賂やなんらかの便宜供与を受けて日本の投資家を騙そうとする詐欺師か、または、ただの「知ったかぶり」か、3つのうちどれかだ。財部の中国観にはなんの合理性もない。

が、SARSが今後中国で繰り返し再流行し、かつR社がVをSARS治療薬として値引きせずに販売するなら、中国の高齢化に伴う諸問題は一気に解決し、中国は今後も成長を続け「21世紀の成長センター」であり続けられる。

たとえそれが実現しても、もちろんそれは、財部らの先見の明を意味するものではない。それは、生物兵器としてのSARSを作って中国でばら撒くという陰謀に、R社以外の「共犯者」がいることを意味するものだ。SARSを作り出す技術力は、先進国の一流製薬企業にしかないので、陰謀の初動段階では、共犯者はR社とその提携相手(日本のJ社、米国のA社)などに限定されよう。

しかしSARSの再流行は、中国の高齢化問題を「解決」し、中国の都市部の成長を維持する効果があるのだから、「事後共犯者」としては、中国政府高官(とくに、R社の上海現地法人を取り巻く「上海閥」の政治家、江沢民前総書記ら)、都市中国人の富裕層、および都市中国に投資して儲けている日米欧など先進諸国の企業が考えられる。

●中国人vs.中国人●
企業が国境を越えて活動する時代に、国と国の対立という概念はいささか古いかもしれない。が、世界には、自国民の生活を豊かにしてきた日本のような民主的な国と、逆に自国民の生活、生命を犠牲にする北朝鮮のような邪悪な独裁国とが対照的に存在しているのも事実だから、 国別に政治を議論することにはまだ意味がある。

そして、後者のような邪悪な国は、ひとり北朝鮮のみではない。
「21世紀の世界に、国家なんてナンセンス(有害無益)」という言葉があてはまるのは、日本国と日本人の関係ではなく、中国と農村中国人の関係だ。

19世紀に、阿片を武器として行われた、英国の対中国侵略戦争(第一次阿片戦争)は「中国人vs.外国人」だったが、21世紀に、SARSウイルスとその治療薬を武器として戦われる「第二次阿片戦争」( 前回の記事を参照)は「中国人vs."中国人+外国人"」の構図なのだから。

【今回の記事が指摘するような、国家ではなく企業が、軍事目的ではなく経済目的で生物兵器を開発し使用する可能性を示唆する言葉が、実は某先進国政府の「公式見解」の中にある次回はそれを紹介する予定。キーワードは「ネガティブ・ウォー」(この言葉については拙著『ゲノムの方舟・文庫版』第一章の註を参照)。文庫版の発売は8月7日(本体価格は上巻800円、下巻762円)。】

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■「炭疽菌疑惑」への疑惑〜シリーズ「SARSの方舟U・だれがSARSを作ったか」(5)■
前回より続く。「シリーズ・SARSの方舟」全体では11回目。】

●米軍の「炭疽菌製造」疑惑●
01年9月11日の米中枢同時テロ(9.11)の数日前、米ニューヨークタイムズ紙(NYT)は、米軍(国防総省)が、米大統領にも報告することなく秘密裏に、炭疽(たんそ)菌を利用した生物兵器を開発していると暴露する記事を載せた( US Germ Warfare Research Pushes Treaty Limits 日本では朝日、毎日両新聞03年9月5日付が引用)。

90年代にロシアが炭疽菌爆弾を開発し、それがテロ集団やテロ国家に渡る危険が高まったため、米軍は、それが実戦で使用される場合の防衛策を研究する必要を感じた。米国は研究のため、ロシアに兵器用に開発した新型菌のサンプル提供を申し入れたが入手できなかったので(毎日新聞01年9月5日付「米国:少量の生物兵器製造を検討 攻撃から米兵を防護」)米側が独自に新型菌を造ってみて、それをもとに対策を研究することになったという( 田中宇「炭疽菌と米軍」)。

生物兵器の開発や保有を禁じた72年の生物兵器禁止条約(BWC)(75年発効)は、条約締結国に生物兵器の保有を禁じてはいるが、条約の条文には保有の有無を国連が査察するための規定(検証議定書)はないし、各国が防衛・研究目的で生物兵器を製造してみることまでは禁じていない。

だから、この米軍の研究「クリアビジョン計画」は合法的なものだ。当時のクリントン米大統領に報告せずにオハイオ州の民間機関などに協力を仰いで研究を進め、ネバダ砂漠に細菌工場を建設するところまで行ったが、01年のブッシュ現政権の発足前後に一時計画を中断し、実際に新型菌を製造した場合の合法性についての検討を待った(毎日前掲記事)。

ブッシュ政権筋によると、米国防総省は政権発足前後に「米国兵士に配布されているワクチンが効果があるかを見きわめるため」炭疽菌を遺伝子操作でより強力にする計画をまとめ、01年9月までには議論が煮詰まり、国家安全保障会議(NSC)が9月中にも最終的に計画を承認し、実際の製造が開始されるところだった(朝日前掲記事)。

その直後に9.11テロが起きて米国内外でアルカイダなどのテロ組織への怒りが高まり、さらにその後、米政界・マスコミ界関係者に「白い粉」が郵送される炭疽菌テロ事件が起き、研究用新型菌のことは忘れられてしまう。

が、12月にはいって、NYTは「白い粉」のうち、米民主党のダシュル上院院内総務宛てに郵送されたものは、米軍など世界最高水準の技術を持つ研究機関でないと製造不可能なほどのレベル(1グラムあたりに炭疽菌胞子1兆個という高密度)だと報じた。その密度は、旧ソ連の生物兵器製造にかかわった研究者ケン・アリベクによれば、旧ソ連諸国や、イラクなどその友好国に製造可能なものの2倍以上だという(NYT03年12月3日付 Terror Anthrax Linked to Type Made by U.S.)。つまりNYTは、白い粉の製造元は、米軍以外にはありえない、と言うのだ。

また、生物兵器に詳しい平和運動家バーバラ・ローゼンバーグの意見もあり、ダシュルや、上記の01年9月4日付記事を書いたNYT記者のもとに送り付けられた炭疽菌は「米軍の研究室の炭疽菌を誰かが盗んだか、米軍内部の専門家がテロ組織に炭疽菌の作り方を教えたか、もしくは米軍が組織的に仕組んだか、のどれかである可能性が高い」と、彼女の意見に基づいてジャーナリストの田中宇も述べている( 「炭疽菌とアメリカの報道」)。

NYTは最初の暴露記事で、複数の米当局者が「01年7月に米国が、生物兵器研究の情報公開を含む同条約(BWC)の議定書案(国連による生物兵器査察を初めて盛り込むための検証議定書案)の拒否を決めたのは、この秘密研究のためだったことを明らかにした」とも述べている(NYT01年9月4日付。朝日前掲記事)。

米国政府の、BWC交渉団の責任者だったジェームズ・F・レオナルドは、米国防総省の炭疽菌研究は、公開して(大統領に報告して)行いさえすれば、潔白が証明されるので問題ない、と指摘したうえで、この研究を「愚かだが、違法ではない」と結論付けている(NYT01年9月4日付)。

また、米国政府(国務省)は、 ボルトン国務次官の発言などを通じて、米国政府が検証議定書を拒否する理由を「国家安全保障上の機密や米国のバイオ産業の企業秘密が漏洩する恐れがあるから」と明言している。

田中宇はこの点を取り上げ、米国政府が検証議定書に反対したのは、秘密の炭疽菌研究がばれると困るからであり、「査察はアメリカのバイオビジネスの企業秘密を侵害しかねない」などというのは、ただの口実にすぎない、と決め付けている。

●滑稽な?正義感●
上記のNYTの2本の記事は大問題を提起しているように見える。米軍(と共和党)が、まるで「民主主義の敵」が文民統制(シビリアンコントロール)を無視してクーデターをたくらむかのように大統領にも報告せず秘密裏に、不道徳な生物兵器を研究製造し、そのスキャンダルを隠すために、BWCの検証議定書を拒否し、自分たちに逆らう米民主党の大物政治家やNYTの記者に「米軍製としか思えない新型炭疽菌」を送り付けて恫喝した……ということなら、天下の一大事だ。少なくとも田中宇や、ブッシュ米共和党政権に批判的な日米の諸勢力はそう見るだろう。

しかし、NYTや田中宇の主張には、おかしなところがある。
検証議定書反対の理由は、米国政府自身の炭疽菌開発だ、と米当局者が述べた…とNYTは記事にしているが、その裏付け取材はしたのだろうか。いや、裏付けを取材するどころか、裏付けを考える論理的思考力を、上記の記事を書いたNYTの記者は持っているのか、と筆者は疑問を感じざるをえない。

なぜなら、秘密の炭疽菌開発計画は「(愚かだが)違法ではない」と別の当局者のコメントを、同じNYTの記事が肯定的に紹介しているからだ。
違法でないものは隠す必要はない。隠す必要のないものを隠す(国際機関によるその査察を拒否する)ために、世界百数十か国が締約している 巨大な国際条約BWCの強化案を葬るというのは「費用対効果」の問題からいって割に合わない。

NYTや田中宇は「クリアビジョン計画」を違法なもの、と取り違えているフシがある。が、元来違法ではないので、01年12月以降この計画が報道されるようになっても、米国政府内にはこの計画を理由に責任を追求された者は1人もいない。となると「米国政府がこの計画を隠したいから検証議定書に反対した」という説には、説得力がない。

●軍事音痴の勘違い●
そもそも、リベラル系のNYTや田中宇には、この問題を含む軍事問題を論じる資格があるのか、という別の問題がある。

まず、NYTは三流紙だ。読むに値しない新聞だと筆者は思っている。
小誌「偽善の反戦」で紹介したように、イラク戦争関連記事であからさまな誤報や偏向報道を連発し、NYTは同じリベラル系のワシントンポスト紙(WP)を含む米メディアから袋叩きに遭っている(WP02年8月21日付ほか)。

とくにひどかったのは、キッシンジャー、ベーカー両元米国務長官が米軍によるイラク攻撃に反対しているというウソを報じて訂正記事を出す羽目に陥った件(NYT02年8月16、17日付、02年9月4日付)、そして「米軍はイラクの首都バグダッドを包囲しても簡単には攻略できず、長期戦になる」という予測(結果的に誤報)だ。この予測は、首都のイラク軍は包囲されれば補給が途絶えて長期戦はできないという軍事常識を無視した、いい加減なもので、シュレジンジャー米元国防長官に「NYTはイラク攻撃に反対なので、そういうこと(一種の捏造記事)を書くのだ」と嘲笑されたほどだ(02年12月15日放送のテレビ東京『日高義樹のワシントン・リポート』)。言うまでもなく、03年4月、米軍は対イラク戦争開戦からわずか3週間後、首都バグダッドをあっさり陥落させ、NYTの記者たちの無能ぶりを証明した。

そして、筆者のNYTへの軽蔑を決定的にしたのは、03年5月に発覚した、大規模な記事捏造、盗作事件だ。
「現場に行ったふりをし、会ってもいない人物の発言を引用し、他メディアの記事を盗用する……そんなことが(ジェーソン・ブレアという若い黒人記者をNYTがスターに育てる課程で、その『スター記者』の手により)堂々と行われていた」( 『ニューズウィーク日本版』03年5月28日号 p.32「NYタイムズ捏造の構図」)という、この呆れた実態が暴かれたことで、軍事関連だけでなく、すべての記事について捏造の疑いが、少なくとも03年5月まではあったことが判明した。

一方、田中宇も、NYTほどひどくはないが、軍事問題は苦手なようで、02年7月16日の「米イラク攻撃の表裏」ではNYTと同様に、イラク軍の補給の問題を無視して「泥沼のバグダッド市街戦」を予言して、みごとにはずれている。ほかにも「予備役」を「予備兵」と言い間違え(01年7月23日)「(現状はゲリラ部隊のような非正規軍?の)自衛隊を(これから)正規軍に近いかたちにする」と述べるなど(01年8月7日)誤った記述を連発している。

米軍への批判やそのための分析は必要だが、何もNYTや田中宇に教えてもらう必要はないだろう。

●軍事常識を踏まえると●
素人の記事は忘れて、虚心坦懐に考えてみよう。
軍事常識を踏まえると、米軍が炭疽菌開発について大統領に報告しなかったのは、驚くようなことではない。

軍隊というものは日常的に、自分たちの仮想敵、またはそうなる可能性の高い敵国が保有する武器については、それを使いこなせるほど詳しく調べる義務があるからだ。

たとえばM16ライフルは米軍の制式銃だが、これに相当する旧ソ連の武器はAKライフルで、これは旧東側諸国に広範に輸出されている。米兵は世界各地で戦う際、敵の武器をかわし、場合によっては敵の武器を奪ってそれを使ってでも戦わなければならないので、当然AKのことは、その分解、組み立て、操作のすべてを知り尽くしている。そういう研究や教育をしない米軍部隊はありえず、それらを怠れば、上官や国防総省首脳からの「職務怠慢」のそしりは免れない。

日本でも、たとえば90年代、地下鉄サリン事件などオウム真理教のテロが話題になっていた当時、元陸上自衛隊北部方面総監の志方俊之は「自衛隊は(テロ国家にサリンで攻撃された場合に備えて)サリンを実際に造ってみてその対策を研究したことがある」と堂々とTV地上波で述べている。それが国防上の常識だからだ。

日米のような豊かな先進民主主義国家では、富は民間人によって幅広く分散、所有されている。必ずしも国家権力を握ることや、国家公務員であることが富を得る手段ではない。したがって、こういう国の軍人には、クーデターを行う動機がほとんどない(高度成長前の韓国や、現在のフィリピンでクーデターやそれに準じる軍の叛乱が見られるのは、国家権力と結び付かない者は豊かになれない、という富の偏在に原因がある)。したがって日米の軍隊が、仮想敵の武器を常識的に研究したからといって、いちいち首相や大統領に報告する必要などそもそもなく、べつに「クーデターにつながる文民統制違反」でもないのだ。

炭疽菌のケースで言うと、これは90年代、まだ政情が不安定で、いつ独裁国家や米国の敵国に戻るかわからなかったロシアが、米国より先に開発したものだ。その防御策を研究するため、当初米軍は自身での開発ではなく、ロシアからのサンプル入手による研究を望み、ロシアに申し入れている。この申し入れは、米国の研究が防衛目的であって「新兵器開発」でないことの証しだ。もし「米軍が細菌工場の建設までしたのは違法の疑いがある」と議会やメディアで非難されたら、ロシアの非協力を指摘すれば、容易に非難はかわせるはずだ。原因を作ったのはロシアであって米国ではないのだから。

●大統領こそ非常識●
それでも、米大統領の場合は、軍の最高司令官である。大統領本人が忙しくて、軍の常識的な研究までいちいちチェックする暇がないのは当然でも、せめてその側近に伝えて間接的に知らしめるべきだったのではないか、という見方はいちおう成り立つ。

しかし「クリアビジョン計画」が進行中のとき、米国の大統領は、信じ難いほど軍事的に常識な言動をとるビル・クリントンだった。ミサイル防衛(MD)構想についての、クリントンの下劣な言動を聞けば、まともな軍人ならだれも報告などしたくない、と思うはずだ。

米国防総省の報告書『アジア2025』には、MDはBMD(弾道ミサイル防衛)としか書かれていない。同報告書はMDの産みの親、国防総省ネットアセスメント室長のアンドリュー・マーシャルが中心になって99年にまとめたものなので(産経新聞01年3月3日付朝刊4面)これが本来の呼称だ。

ところが、クリントンはMDを歪曲し、米国を長距離弾道ミサイルから守るNMD(米本土ミサイル防衛)と、同盟国を中短距離ミサイルから守るTMD(戦域ミサイル防衛)との2つに勝手に分けてしまった。その結果「米国は、自国はNMDという完璧なシステムで守るが、日欧などの同盟国はTMDというほどほどのシステムで守る(から欧州人などは死ぬかもしれない)」という誤解が全世界に広まり、MD反対運動が沸き起こった。またクリントンは、MDの技術検証実験のレベルを下げ、実験日程を「後ろ倒し」することで、あたかもMDが実現困難な、絵空事の技術であるかのような幻想を広めることにも尽力した…。

信じ難い話だ。左翼的な軍縮・平和主義の立場からMDに反対するのならともかく、卑しくも「米軍の最高司令官」ともあろうものが「言葉のごかまし」や日程遅れなどのいやがらせによって、通常兵器の大幅軍縮につながる可能性の高い新技術を合法的に妨害しようとしたのだ。クリントンがどれくらい卑劣なにんげんか、これでわかるだろう。

こんな(田中真紀子のような)非常識人に炭疽菌兵器対策を報告したらどんな目に遭わされるか、と想像すれば、良識ある軍人はとても報告などできまい。軍人は職務と軍規に仕えるのであって、司令官個人に仕えるのではない。大統領が極端な軍事的常識人で、卑劣なウソつきだとわかっていて、そんな者に軍を非難する「揚げ足取り」の口実を与えるような報告を、軍の幹部や、クリントン米民主党政権下のコーエン国防長官(実は共和党員)がしなかったのは、至極当然だ。報告しなくても(NYTが言うように)違法ではないのだから。

また、クリントン政権時代、彼の「下半身スキャンダル」を議会共和党が執拗に追求し、なんとか彼を辞任に追い込もうとしたのも当然で、「このままクリントンを最高司令官の座に置いておくと、軍がメチャメチャにされてしまう」という恐怖感があったからにほかなるまい。

したがって、軍を悪者扱いして「大統領にも知らされなかった炭疽菌開発」(田中宇「炭疽菌と米軍」)を非難するのは筋違いだ。

この「炭疽菌疑惑事件」の本質はぜんぜん別のところにある。それは本シリーズ「だれがSARSを…」のテーマと関わっている。それについては次回

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■炭疽菌ビジネス〜シリーズ「SARSの方舟U・だれがSARSを作ったか」(6)■
前回より続く。「シリーズ・SARSの方舟」全体では12回目。】

03年7月15日、東京医科歯科大学と京都大学の研究グループは、欧州の某巨大製薬企業(R社とする)が、日本の大企業(J社とする)、米国企業(A社)と共同で開発したエイズ治療薬ネルフィナビル(商品名は別にあるが、Vとする)が、SARS(重症急性呼吸器症候群、新型肺炎)の治療にすぐに使える可能性があることを発見した。同日、R社は、SARS患者がSARSを発症する前の潜伏期間中でも感染の有無を検査できる画期的な検査キットを出荷すると発表。突如R社は、治療、検査の両面でSARS関連ビジネスのトップに立つ可能性を示した。
このシリーズでは、SARSウイルスがR社によって人工的に作られたかどうかを検証している。

●米軍には「動機」がない●
前回の記事を配信したあと、一部の読者から「おまえは米軍や共和党をかばっている」という批判のメールを頂いた。「米ニューヨークタイムズ紙(NYT)が米軍の秘密の炭疽(たんそ)菌製造を暴露しても議会が政権担当者の責任を追求しないのは、野党の大物政治家(ダシュル米民主党上院院内総務)やNYTの記者に『米軍製の炭疽菌』が送り付けられ、彼らが怖くなって追求をやめたからだ」というメールもあった。

が、上記の批判が成り立つためには、NYTが米軍の炭疽菌製造(の違法性)を明確に非難する必要がある。米軍がNYTに対して「この野郎、よくもオレたちの計画を妨害したな」と怒って炭疽菌を送って恫喝した、というのなら、筆者の見解ははずれで、問題のNYTの記事を書いたJ・ミラー (Judith Miller) ら3人の記者は、邪悪な国家権力(米軍)と戦う民主主義の英雄だ。

ところが、前回述べたように、NYTのその記事(01年9月4日付 「U.S. Germ Warfare Research Pushes Treaty Limits」)は「違法ではない」と述べている。それどころかミラーらは、軍・政府関係者の主要な発言をほとんど鵜呑みにし、まったく戦っていない

まず彼ら3人は「複数の米国政府当局者が『01年7月に米国が、生物兵器研究の情報公開を含む同条約(生物兵器禁止条約、BWC)の議定書案(国連による生物兵器査察を初めて盛り込むための検証議定書案)の拒否を決めたのは、この秘密研究の(秘密を守る)ためだったことを明らかにした』」と「当局者」の言い分を、裏付けなしに記事にしている。

次に彼らは、米国政府の、BWC交渉団の責任者だったジェームズ・F・レオナルドの、米軍(国防総省)がクリントン大統領に報告せずに行った炭疽菌研究(製造計画)は「愚かだが、違法ではない」という、これまた政府当局者の言い分をそのまま紹介することで、問題の炭疽菌研究に「合法性」の太鼓判を押している。

さらに彼らは、米軍と契約している研究機関(the Battelle Memorial Institute)がオハイオ州に持つ施設(ウェストジェファーソン研究所)が、米軍の依頼でネバダ砂漠に炭疽菌製造のための「秘密の」細菌工場を(必要に迫られて?)新たに建設した、という(製造計画が秘密であった以上)米軍関係者(当局者)からリークされたしか思えない情報を、これまた無批判に、裏付けを取らずに紹介している。

●生物兵器への「誤った常識」●
「当局者」の主張のうち、彼らが同意しなかった唯一のものは、ボルトン国務次官らが明言した「米国政府が検証議定書を拒否する理由は『国家安全保障上の機密や米国のバイオ産業の企業秘密が漏洩する恐れがあるから』という米国政府(国務省)の公式見解だ (米国務省のホームページを参照)。が、これは上記の「複数の米国政府当局者」の言い分と矛盾するので、否定しないわけにはいなかったのだろう。

さて、NYTが裏付けなしに肯定的に紹介した上記の「当局者」の言い分を総合すると、読者は次のような印象(偏見)を抱くようになるはずだ:

#1: 生物兵器(新たな病原体)の製造は軍事目的でのみ行われる。
#2: 強力な生物兵器の製造は必ず、軍がいわゆる軍需産業(伝統的な産軍複合体)に発注して行う。
#3: 米軍がオハイオの研究所に発注するまで、米国内(外)には「世界一強力な炭疽菌兵器」を製造できる施設(秘密の細菌工場)はなかった。
#4: 軍関係の仕事をしない民間起業には元々強力な生物兵器(新たな病原体)を製造する能力はないので、「米国のバイオ産業の企業秘密が(国連の査察によって)漏洩するのを防ぐため、01年7月にBWC検証議定書の拒否を米国政府が決めた」というのはウソだ。

拙著『ゲノムの方舟』を読んだ方はおわかりだろう。上記の#1〜#4はすべて誤りだ。
バイオだけでなく、IT技術の分野でもそうだが、軍事技術のほうが常に民間技術より進んでいるという「法則」はない。たとえば米軍の装備に使われている半導体は64ビットが多いが、日本製ゲーム機「プレステ(PS)2」の半導体は128ビットで、軍用より高性能だ(産経新聞03年8月31日付朝刊、唐津一「正論」)。だから、イラクが00年12月に大量のPS2を輸入した際には「PS2から半導体を取り出して、自前のミサイルの開発に流用するのではないか」と懸念されたほどだ(朝日新聞00年12月24日付朝刊「プレステ2をイラクが大量購入」)。

感染力の強い病原体を研究するには、密閉性の高いBL-4(生物学的封じ込めレベル4)の施設が必要で、米陸軍のフォート・ディートリック基地にそれに該当する施設があるにはあるが、米国の場合、私立大学など民間機関にもそういう施設は(公表されているだけで)複数ある。ロックフェラー一族などの大富豪の資力は、アフリカや中東の中小国の国家財政をも上回るので、政府がまったく関与しない形で、たとえばロックフェラー大学医学部のような純粋な民間機関でも新たな病原体(生物兵器)を開発することは現実に可能である。

したがって上記の#2、#3は誤りだ。
もちろん「民間機関には『大量殺戮』(の対策、研究)という軍事目的がないのに、なぜ生物兵器など造る必要があるのか、と疑問を抱く方もおられよう。本来、大学や製薬企業は、病原体の治療薬を開発してこそ利益が上がるのだから、当然である。
が、この疑問の答えは、すでに本シリーズ 「SARSの方舟U」で述べているとおり「ネガティブ・ウォー」(消極的生物兵器戦争、消極戦)だ(#01への反論)。製薬企業は、最先端技術で開発した薬品に特許の網をかけて、特許料に基づく高い薬価を設定して患者から利益を得ようとする。が、エイズなどの新しい感染症の場合、患者は貧しい途上国に集中しているので、彼らは高価な薬品は容易には買えず、その結果薬が買えれば助かるはずの患者がどんどん死んで行く。いわば製薬企業は、高い薬価によって貧しい患者に先端バイオ技術を「使わせない」ことで人を殺す「消極戦」を戦っているのだ。

●ネガティブ・ウォーへの返り討ち●
この「消極戦」をもっとも積極的にやりすぎたのが、R社などのエイズ治療薬メーカーだ。01年春、エイズ患者を多数抱えるブラジル政府は「R社のエイズ治療薬Vに対する特許を無視して類似商品(コピー薬)を製造することを国内の製薬企業に認可する」と宣言。インドなど他の「エイズ大国」もこれに倣うと予想されたから、この時点で、R社がVの収益計画(開発に投じた莫大な資本金の回収見通し)を大幅に修正せざるをえなくなったのは間違いない(じっさいに1年後に、R社はブラジル政府にVの大幅値引きを確約させられる。小誌 「中国vs.製薬企業」を参照 )。

その約3か月後の01年7月、米国政府はBWCの検証議定書を「米国のバイオ産業の企業秘密が漏洩する恐れがあるから」(ボルトン国務次官)という理由で拒否する。

その後、01年9月下旬になると、米民主党の政治家やマスコミに炭疽菌が郵送される「炭疽菌テロ」が始まる( 9月の消印の郵便物から炭疽菌が検出されたと報じる毎日新聞Web版01年11月17日 )。9月11日の米中枢同時テロの直後だけに、アルカイダなどのテロ組織による「生物兵器」への懸念が高まり、米軍は炭疽菌や天然痘のワクチンや治療薬、検査キットなどを大量に製薬業界(バイオ産業)に発注する。

●炭疽菌検査ビジネス●
その2か後の11月、それまで24〜48時間かかっていた炭疽菌の検出をわずか1時間で実現する画期的な検査キットが開発された……この開発企業が、なんとまたR社なのだ( R社と検査キットを共同開発したメイヨークリニックのホームページを参照。尚、R社は炭疽菌検査でも、SARS検査キットと同じ「PCR検査法」を使っている。同社ホームページ日本語版も参照)。

つまり、R社は、03年にSARSがはやったときに画期的な検査キットを開発しただけでなく、01年に炭疽菌がはやった(?)ときにも、すぐに検査キットを開発して「検査・治療ビジネス」でトップに立っていた。ブラジル政府の「返り討ち」からわずか半年後、まるでVの販売で得られるはずだった利益が途上国政府の圧力で失われるのを補うかのように、R社は 炭疽菌テロのおかげで新たな利益獲得の道を見出していたのだ。

もしNYTの01年9月4日の記事がなければ、01年11月の時点で、炭疽菌テロの犯人としては真っ先に、米軍ではなくR社が疑われていたはずだ。そして、もし01年7月の、米国政府によるBWC検証議定書拒否がなければ、R社は国連の査察を受けていたはずだ。査察されれば、R社は炭疽菌検査ビジネスを展開できず、ブラジル政府らの圧力で失ったVの利益はそのまま巨額の損失(逸失利益)として残ったはずだし、また、それを取り返すために、Vを別の病気の治療薬として売り直す「一粒で二度おいしい」戦略のために、SARSを人為的に流行させることもできなかったはずだ。

NYTが低俗な三流紙であることがはっきりするのは、03年5月の、記事捏造・盗用事件の発覚後だ。01年9月4日の「炭疽菌記事」の時点ではまだ「世界の一流紙」であり、しかも内容が「反国家権力」だったので、生物兵器に詳しい(と称する)市民運動家のローゼンバーグら多くの「識者」がNYTの記事にまんまと引っかかって「炭疽菌は米軍が関与しないと作れない」などと無知蒙昧なコメントを発し(田中宇 「炭疽菌とアメリカの報道」)米民主党支持者らリベラル(左翼)勢力の「反テロ」の視線をバイオ産業からそらすことに一役買った。

上記のボルトン国務次官の発言はたぶん正しい。それがウソだ(#04)と言っているのは、ローゼンバーグや田中宇のような「ネガティブ・ウォー」(拙著『ゲノムの方舟・文庫版』を参照)もろくに知らない素人たちだ。バイオ産業に関するボルトン発言を否定する根拠は存在しない。米軍には「炭疽菌テロ」を起こす動機がなく、逆にR社には明確な「動機」があるのだから。

R社は米国にも現地法人を持つ欧州企業で、Vの開発では日米のバイオ企業と提携している。したがって、01年7月の米国政府の検証議定書拒否は、たんに米国のバイオ産業を守るためではなく、日米欧先進各国すべてのバイオ産業界の(ネガティブ・ウォーによる)利益を守るため、日米欧各国政府を代表して行ったもの、と解釈するほうが自然だろう。

いま、先進各国のバイオ産業界にとっていちばん重要なことは「生物兵器は必ず、国家またはそれに準じる(テロ組織などの)武装集団によって、軍事目的で使われる」という根拠不明の「常識」を維持することだ。間違っても「製薬企業が自社製品を売る口実を作るために商業的に生物兵器を利用する」などと思われてはならない。産業界はその巨大な利権を守るためなら、平気で米軍に濡れ衣を着せるだろうし、新聞記者も買収するだろう。

「巨悪」とは、こういうのを言うのだ。

●巨悪を助けた「反国家権力」●
NYTの不祥事として公表されているのは捏造と盗用だけだ。が、前回取り上げた例だけでも明らかなように、あれだけ無責任で知的レベルの低い記事を何度も書いてきたNYTだ。01年当時、功名心にはやるNYTの記者たちをR社(やR社に雇われた「自称米国政府当局者」)が買収し、あるいはだまして「炭疽菌記事」を書かせた、と考えることは至極当然ではないか。

本件に関する限り、米軍は「第三者」であり、少なくとも主犯ではない。もしかすると被害者かもしれない。
「なんでも軍が悪い」式の単細胞な発想では真の巨悪は追求できないことを、「反国家権力」志向の記者たちは知るべきだ。

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 (敬称略)

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